法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

消極的アヒンサー(非暴力)と積極的アヒンサー(非暴力)

(1)感情と想像

この世で生きていると、いろんなことを見たり聞いたり、体験したりします。

そんなとき、咄嗟に様々な感情が浮かんできて、それから「どうしたんだろう」などといろんなことを想像して、やがて「きっとこうに違いない」と総括するのではないかと思います。

何かあるたびに、心の中はこんな風に動くのではないかと思います。それが四六時中続いているのではないかと思います。

しかし、心の中に瞬時に浮かぶことは、事実に基づいたものというよりも、一人一人の心の反映ではないかと思います。心の中には、劣等感・欲望・優越感・トラウマ(心の傷)や、人間観・世界観・宇宙観など様々なものがあると思います。何かを見聞きしたり体験したりするたびに、それらが大きな刺激を受けて、心の中に様々な感情や想像を生み出しているのではないかと思います。


(2)天国と地獄

したがって、同じできごとを体験しても、心に浮かぶことは人によって全然違うのではないかと思います。それが積もり積もって、一人一人がまったく別の思い込みや心の傷を持ち、まったく別の人間観・世界観・宇宙観を持って生きているのではないかと思います。

生まれてこのかたの蓄積が様々な感情や想像を生み出し、そうやって生み出された様々な感情や想像が心の中に蓄積されていく。その結果、幼い頃に形作られた思い込みや心の傷は、年月とともにどんどん強化されていくのではないかと思います。まさに「三つ子の魂百まで」ではないかと思います。

その根源をたどっていくと、人それぞれの執着・煩悩に突き当たるのではないかと思います。人それぞれの煩悩が、人間観・世界観・宇宙観の違いに大きな影響を与えているのではないかと思います。

そのため、同じところで同じような暮らしをしている人たちであっても、ある人は天国にいるような気持ちで暮らしていて、すぐ隣の人は地獄の苦しみを味わいながら暮らしているかもしれません。長い人生の中で心境や状況が揺れ動いて、天国と地獄を行ったりしている人もいるかもしれません。


(3)アヒンサー

インドにアヒンサー(非暴力)という言葉があります。

私の勝手解釈では、この言葉は肉体的な暴力をふるわないだけでなく、心の中に攻撃的な気持ちを抱かない、という意味だと思います。しかしこれではちょっと消極的なので、最近はさらに一歩踏み出した解釈をするようになりました。

一人一人は煩悩ゆえに、様々な人間観・世界観・宇宙観を持ち、日々の暮らしの中で様々な感情や想像を抱きながら生きています。

仮に、目の前の人が煩悩ゆえに地獄の苦しみを味わっているのであれば、そしてその苦しみゆえに周りの人たちに対して攻撃的・破壊的な言動を繰り返しているのであれば、、

そのような人たちに対して暴力的な態度を取ったり攻撃的な気持ちを抱いたりしない「消極的アヒンサー」だけでなく、煩悩ゆえの地獄から救い出す「積極的アヒンサー」が大切ではないかと思うようになりました。

言い換えると、仏教で言うところの「抜苦与楽」、キリスト教圏的で言うところの「純粋で無条件な愛」まで踏み込まないと、本当のアヒンサーにならないのではないかと思うようになりました。これはアヒンサーから一歩踏み出しているようでいて、実際にはアヒンサーの一側面ではないかと思います。生き方に対する視点のちがいが、表現の違い(言葉の違い)に表れているだけではないかと思います。

「消極的アヒンサー」も「積極的アヒンサー」も今の私にはとてもとても難しいことです。しかし、まずは夢見るところから始めたいと思います。