法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

晩秋のチャリ散歩

今日もチャリ散歩に出かけました。そして、この季節向けの服装がわかりました。

結局のところ、冬場の半身浴も、冬場の暖の取り方も、冬場のチャリ散歩も、考え方は同じでした。

体の発熱量をできるだけ高めて、体からの熱放散を適切に抑えて、不足熱量を体に与えるだけです。基本的な考え方はどれも同じで、具体的な方法が異なるだけでした。

例えば、冬場の半身浴では、腕をどのくらい湯船に浸すかで、熱放散量を調整すると同時に、お湯から得る熱量も調整します。ときには膝を水面に近付けることでも調整します。間違えてお湯の温度を上げすぎると、熱産生量が落ちて却って寒くなります。

冬場の暖の撮り方は、厚着と膝掛け(電気毛布)で熱放散を抑えて、電気座布団・電気湯たんぽ・電気毛布から熱量を得ます。間違えて体を温めすぎると、熱産生量が落ちて却って寒くなります。

同様に、寒い季節になってもチャリ散歩を続けようと思ったら、厚着で熱放散を抑えて、カイロから熱量を得ます。温めすぎないように注意が必要です。具体的な方法は、気温が下がるごとに実体験を通して見つけていく必要があります。ただし、これから肉体的な上限値も徐々に下がっていくので、寒風の中をチャリ散歩するのは限界があるかもしれません。

寒い季節には、日頃から体の発熱量を高めに保っておくと、暮らしが楽になるように思います。特に私のように血行が悪い人には重要なことかもしれません。

ところで、私の電動アシスト自転車はモーター・ブレーキが付いているので、下り坂の風を少し弱めてくれます。冬場には熱放散を抑える効果がありそうです。ありがたいです。

鳥の視点、虫の視点

(1)階層的理解

私は後遺症の影響で「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」で、一度にたくさんのことを考えることができません。そこで次のような工夫をしています。

何かを理解するときは、全体の構造と要素を分けて考えます。まず各要素について理解して、次に要素間の関係を理解することで(=構造を理解することで)、全体の理解を試みます。構造と要素の二階建ての理解ということもできると思います。

もしも要素が大きすぎて理解できないときは、その大きな要素の内部を構造とサブ要素に分けて考えます。そして、各サブ要素について理解して、それからサブ要素間の関係を理解します。すなわち、構造と要素とサブ要素の三階建ての理解ということもできると思います。

複雑度が高いときは、四階建て、五階建て、と階層をドンドン深くしていきます。

こんな風に階層的に理解して、必要に応じてズームイン/ズームアウトすることで、狭い「思野」の中に収めて思考しています。お蔭で「思野狭窄」でもある程度考察することができています。

※ただし、どう工夫しても「思野」に収まらないような複雑度の高い内容については、今は思考することができません。


(2)鳥の視点

しかし思い出してみると、私は子どもの頃から他の人よりも「思野」が狭かったように思います。そこで、子どもの頃から構造に注目して階層的に理解するようにしてました。階層的な理解に慣れていたお蔭で、「思野狭窄」になってもちょっと不便になった程度で済んでいます。

※喩えるなら、発症前は電子地図を使って対象を拡大縮小しながら思考してました。発症後は望遠レンズを使って対象を拡大縮小しながら思考してます。そのくらい視角が小さくなりました。

階層的な理解は「鳥の視点」と相性がよいので、自然に「鳥の視点」を身に付けたのかもしれません。


(3)虫の視点

私は「虫の視点」に対する理解が弱いので、現時点では想像するしかありません。見当外れが多いかと思いますが、こんな感じでしょうか…

「虫の視点」を得意とする方は、

  1. 身の回りのことは直接体験を大切にします。具体的な範囲は人によって異なります。丁寧に何十年と続けた人が達人の域に達することができるのかもしれません。

  2. その一方で、縁遠いこと(直接体験できないこと)は中身にはあまり興味がなく、印象から想像を膨らませます。常識や噂話を活用して、人間観・世界観作っています。想像を膨らませたり、想像内容を語り合ったりする時間を大切にします。

  3. また、遥か彼方のこと(例:天体、大自然、偉人)は、見上げるのみです。

喩えるなら魚眼レンズのように、手元は大きく、手元から離れるほど小さく見えているのでしょうか…


(4)現世利益

ところで、世間の常識は、現世利益を大切にするように思います。

そのため、常識を大切にする人は、現世利益を大切にする人でもあるように思います。(ここでの現世利益には、世間体や安心感なども含まれます)

そこで、常識に従って物事を「○」か「×」かに分類するようです。現世利益につながることが「○」、現世利益を損なうことが「×」と判定されるのではないかと思います。成績に喩えるなら、「○」が「可」、「×」が「不可」となるようです。そのため、「×」を無くすことが重視されます。「○」の質は問われません。

また、人間関係も現世利益へのつながりやすさによって「上」「並」「下」と分類されるようです。そして、「上」の人に対しては丁重に、「並」の人とは親しく、「下」の人はぞんざいに、応対するようです。

親分子分関係でも、現世利益へのつながりやすさが重視されるように思います。

現代の日本人は、常識を不文聖典として、常識が定める現世利益を求めて、必死で生きているのではないかと思います。


(5)犀の角

おそらく日本では、「虫の視点」が多数派で、「鳥の視点」は少数派です。また、常識を大切にする人は超多数派で、大切にしない人は超少数派です。

そのため、私は一人でいるのが一番気楽に感じるのかもしれません。世間からも同様に見られているかもしれません。

言葉にできない

(1)朝の夢

大きな病気をふたつ続けて体験してから何年経ったことでしょう。その後遺症の影響で、貴重な体験を重ねることができています。特に、常識と想像力について考察する材料をたくさんいただきました。

先日、夢を見ました。もしかしたらフェーズの変わり目にあるのかもしれません。


(2)共有概念

ところで、言葉は共有概念を交換するためにあります。それを重ねることでコミュニケーションが進みます。

例えば、米飯。食べる。美味しい。それぞれの単語を聞いて思い浮かべる概念は、みなさん、ほぼ同じだと思います。和語も熟語も外来語も、それらが示す概念をおおよそ共有しているからこそ、コミュニケーション手段として用いることができます。

専門用語も同様です。その分野に詳しい人同士であれば専門用語が示す概念をおおよそ共有しているからこそ、コミュニケーション手段として用いることができます。

特定の世代や仲間内だけで使われる言葉も同様だと思います。

いずれの場合も、言葉は共有概念を交換するための貴重な手段になっていると思います。


(3)非共有概念

逆に、共有概念にはないことを伝えようと思ったら、言葉はとても不便です。

例えば、数学の最新定理があまりに美しいのに感動して、数学に興味のない友人に感動を伝えようとしても、「感動した」という心の動き以上のことを伝えることはできません。「感動した」はお互いの共有概念ですが、数学の概念は共有できてないからです。仮に数式を見せても感動は伝わらないと思います。

あるいは、宇宙空間から地球を眺めて感動した人が、その感動を友人に伝えようとしても、「感動した」という心の動き以上のことを伝えることはできません。仮に写真をたくさん見せたとしてもです。「感動した」も地球の美しさもお互いの共有概念の範囲ですが、宇宙体験を通して感じたことはお互いの共有概念にないからです。

※写真と実体験の差は途轍もなく大きいと思います。大富豪はそれがわかっているからこそ、途方もない大金をはたいてでも宇宙空間に飛び出したいのだと思います。

これは、あらゆる分野で同様ではないかと思います。


(4)瞑想を伝える

これはファンタジーに属することかもしれません。

ある人が瞑想したとします。瞑想の感動を、瞑想したことのない友人に伝えようとしても、共有概念が少なすぎて表面的にしか伝えることができないのではないかと思います。

また別の人が瞑想したとします。なにかが体の表面をモゾモゾと動いているように感じたとします。あるいは、なにかが体内を勢いよく動いていて、ときどき体外に飛び出しては返ってくるように感じたとします。自分でもなにがおきているのかわかりません。ひょっとしたら瞑想者が「エネルギー」と呼んでいるものかもしれません。その体験を瞑想したことのない友人に伝えようとしても、共有概念がないので、まったく伝わらないのではないかと思います。

さらに別の人が瞑想したとします。肉体感覚が消えてエネルギー体のようになって、やがてエネルギー体の感覚も消えて体があるのかないのかわからなくなったとします。そして、この世の「ある」「ない」とは別概念の「ある」という状態になっているとします。この世の常識から離れすぎているので、もはや言葉で表現しようという気持ちにすらならないかもしれません。


(5)夢を伝える

例えば夢の中で、前述の表現しようのない「ある」の世界にいるとします。

そして、その表現しようのない「ある」の世界における「ある」「ない」の概念をもさらに超えた世界から、「なにか」が降りてきたとします。その「なにか」は、ゆらゆら降りてきたようでもあり、すーっと降りてきたようでもあるとします。また、その「なにか」は「ある」のか「ない」のかすらわからず、なにやら存在感だけは感じるとします。そして、(夢の現場である)表現しようのない「ある」の世界における「からだ」と合体したとします。その瞬間、見えない閃光を感じて、感じられない柔らかさと優しさを味わったとします。それから「南無阿弥陀仏」と声なき声を称えたとします。その夢を見たあと、明らかに瞑想の質が変わったとします。

夢の中の話なので、仮に本人にとっては具体的であったとしても、それを言葉にした瞬間に、恐ろしく抽象的で読むに耐えない文章になってしまうのではないかと思います。運よく読んでくれる人がいたとしても、まったく異なった体験として伝わって、予想もしなかった尾鰭がついてしまうのではないかと思います。共有概念がないだけでなく、想像のとっかかりすらないので、仕方ありません。

五感を超えて、「ある」「ない」をいくつも超えた世界の夢のお話は、言葉で表現できないだけでなく、ファンタジーの仲間に入れてもらえるかどうかもわかりません。。


(6)一遍上人

一遍上人の和歌に「身をすつる すつる心を すてつれば おもいなき世に すみそめの袖」というのがあるそうです。

「身をすつる」をこの世の概念で理解することもできますし(例:献身的に生きる)、この世にはない概念で理解できるかもしれません(例:高次元世界に本心を置く)。「すつる心」も同様です。「おもいなき世」とは、「ある」「ない」を遥かに超えた世界のことかもしれません。そこは「身」「心」「おもい」という概念を遥かに超えた世界ではないかと思います。「墨染めの袖」は僧衣から転じて僧侶を表す言葉です。一遍上人が恋慕う阿弥陀仏は、この世の概念を遥かに超えた世界に御座します。

すなわち、「本心はこの世の概念を遥かに超えた世界に住み、同時にこの世では一介の僧侶として献身的に生きていく」。そんな心境を綴った和歌だと捉えることもできるように思います。それが一遍上人にとっての「南無阿弥陀仏」で生きる姿なのかもしれません。


(7)多義的なスルメ

そんなこんなを考えてみると、言葉にするのが難しいことは、直接的な表現を試みるよりも、多様な解釈が可能な文章で表現した方がよいのかもしれません。ある視点から読むと本心が伝わり、別の視点から読むとまた別の気持ちが伝わるような文章で、本心を暗に仄めかした方がよいのかもしれません。そのような文章は、噛めば噛むほど味の出るスルメのような文章と言えるかもしれません。

聖人の言葉は、そのような観点で読んだ方がよいのかもしれません。

いつの日か、私もそのような深みのある文章を書けるようになりたいものだと思います。もとい、そのような深みのある人物になりたいものだと思います。

一時的に化学物質臭に敏感になっています

ホームセンターに寄ったところ、久しぶりに化学物質臭をプンプン感じました。

先週、添加物をたくさん体内に入れた影響で、一時的に空中に漂う化学物質に敏感になっているのだと思います。また、先週から体のあちこちで、体内に化学物質が溜まったとき特有の反応を感じています。今回は唇、手の甲、足の甲に顕著です。(このような症状も常識外れに見えるかもしれません)

早く排出できますように!

常識外れな境遇にある人にとっては、常識は高い壁

(1)常識外れと怒り

常識は、矛にもなり、盾にもなります。

例えば、常識外れな症状を持つ人は、それを人に伝えてもなかなか信じてもらえません。

悪質な嘘をついているんだろうと思われて、怒鳴られたり、馬鹿にされたりすることもあります。精神的なものだろうと思われて、できないと言っていることを無理矢理やらされることもあります。悪い噂を立てられることもあります。

おそらく、常識を大切にする人は、常識外れなことを口にされると、怒りの感情が湧き上がってくるのではないかと思います。そこで、嘘をついていると思ったり、気分的なものだろうと思ったりするのではないかと思います。そして、常識外れなことを二度と口にしないよう、あれこれ手を尽くそうとするのではないかと思います。親切心の発露として、真人間に立ち返らせようとしているのではないかと思います。


(2)常識外れと不安

その先は、ふたつのパターンがあるように思います。

ひとつは、諦めて匙を投げるパターンです。この場合は、怒りは鎮まらないでしょうから、「あいつはとんでもないやつだ」と悪い噂が広まるかもしれません。

もうひとつは、常識外れの症状を現実として受け入れて、不安になるパターンです。そして、常識の範囲で対策を考えようとするようです。(しかし、常識外れの症状に対して、常識で対処しようとしても、なかなかうまくいくものではありません)


(3)常識の高い壁

上記の例では健康面の問題でしたが、経済的・社会的に常識外れな境遇にある人も、同様な扱いを受けるのではないかと思います。

すなわち、常識外れな境遇にある人は、そのことを人に伝えようとするたびに、様々な形で怒りの感情を浴びることになるのではないかと思います。諦めて匙を投げられるまで続くこともあれば、やがて現実を受け入れて不安になる人もいるのではないかと思います。

いずれにしても、世の中と距離を置いて、一人で解決しなくてはいけなくなるのではないかと思います。一人で深く苦悩するからこそ前進できる側面もあれば、強力な支援者がいてこそ前進できる側面もあるように思います(前者は精神的側面、後者は社会的側面)。

常識外れな境遇にある人にとっては、常識は高い壁のように見えるのではないかと思います。だからこそ、貴重な学びの機会となり、大きな成長の機会となるのではないかと思います。

カーナビを道路地図帳として使うか、経路案内機能を使うか

(1)カーナビ

カーナビを持ってなかった頃、クルマで遠出するときは道路地図帳は必須でした。

事前にルートを調べて、どの道路を通ってどの交差点で曲がるか、きっちり決めてから出発してました。運転中は助手席に道路地図帳を広げて、信号待ちの時間を利用して現在位置を確認してました。標識や景色など、車外の情報をフル活用して、現在位置を確認しながら走ってました。あの頃が一番、車外の景色に注意を払っていたように思います。

その後、2〜3世代型落ちした安いカーナビを入手しました。

クルマで遠出するときは、やっぱり道路地図帳で事前にルートを調べてました。そしてカーナビを道路地図帳代わりに利用してました。カーナビの画面を見るだけで現在位置を確認できるので、車外の景色にあまり注意を払わなくなりました。経路案内機能は利用しませんでした。

あるとき、最新の普及型カーナビを利用する機会がありました。

目的地を指定する方法しか教えてもらわなかったので、経路案内機能を初めて利用しました。運転中にあれこれ話しかけてくるし、画面上には地図以外の情報がたくさん表示されるし、地図は小さくて進行方向が上になってるしで、使い勝手がいつもと大きく異なりました。私が必要とする情報をなかなか見つけられない代わりに、不必要な情報を大量に提供してくれるので、情報に溺れそうになりました。安全確認しながら経路案内の指示に従うだけで精一杯で、車外の景色に注意を払う余裕はありませんでした。

カーナビはどんどん高機能化しているようですが、はたして運転手の心を豊かにしているのか、それとも運転手の心を忙しくしているのか、私にはよくわかりませんでした。


(2)鳥の視点、虫の視点

建物を描くとき、「鳥の視点」で上空から斜めに見下ろした形式のものを鳥瞰図、「虫の視点」で下から見上げた形式のものを虫瞰図というそうです。鳥瞰図は全体を見渡しやすく、虫瞰図は部分を詳細化しやすい特徴があるのではないかと思います。

前述のカーナビの使い方を分類すると、道路地図代わりに使う場合は「鳥の視点」、経路案内を利用する場合は「虫の視点」と言うことができるのではないかと思います。

「鳥の視点」の使い方の場合は、心の中で道路網全体を鳥の視点で見下ろして、予定経路と現在位置を把握します。カーナビが表示する道路地図は、現在位置を把握するための重要なツールです。必要とする情報が少ないので、追加情報をいくらでも受け入れる余裕があります。そのため車外の景色から街や地域について様々な情報を得る余裕があります。

「虫の視点」の使い方の場合は、心の中には現在位置からの眺めしかありません。そこでカーナビに、次にどう走るべきかの情報を教えてもらいます。情報のシャワーを浴びながら走るので、追加情報を受け入れる余裕はほとんどありません。そのため車外の景色から安全確認以上の情報を得る余裕はありません。

私の体験からは、このような違いがあるのではないかと思います。しかし、カーナビの経路案内機能を使い慣れている人は、まったく別の感想を抱いているかもしれません。


(3)日々の暮らし

日々の暮らしの中での情報の受け取り方にも、「鳥の視点」と「虫の視点」の違いがあるのではないかと思います。

日々の暮らしを「鳥の視点」で俯瞰して見ている人は、全体の構造が見えているでしょうから、新たな情報を受け取るたびに、適切な引き出しに整理整頓しながら収納することができるのではないかと思います。そのため、常に見通しがよいのではないかと思います。

日々の暮らしを「虫の視点」で見ている人は、身の回りのことについては自分で直接確かめたい一方で、縁遠いことには興味がないかもしれません。

おおよそ、このような違いがあるのではないかと思います。(私は「虫の視点」がよくわからないので、そっけない記述ですみません…)


(4)日本語と英語

世界の言語を見渡してみると、「鳥の視点」が得意な言語と、「虫の視点」が得意な言語があるそうです。

例えば、日本語は「虫の視点」が得意で、英語は「鳥の視点」が得意だそうです。そのため、日本語話者は「虫の視点」で世の中を見る傾向があり、英語話者は「鳥の視点」で世の中を見る傾向があるそうです。

(カナダ在住の日本語学者である金谷武洋さんの著書を何冊か読んだことがあるのですが、その中のどれかにこのような趣旨のことが書かれてました。欧州の言語の歴史を調べると、民族性の変化が文法を変えた可能性があるそうです。)

※有名な例を挙げると、川端康成の小説『雪国』の冒頭部分「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、英訳では「The train came out of the long tunnel into the snow country」となるそうです。日本語では主人公の視点で書かれ、英語には鳥の視点で訳されています。


(5)文化圏と視点

このように考えてみると、「虫の視点」文化圏である日本で、カーナビの経路案内機能が好まれるのは当たり前のことなのかもしれません。(私はここでも例外なのかもしれません…)

「鳥の視点」文化圏の国々では、カーナビはどのように使われているのか、興味があります。

もしかしたら、「虫の視点」文化圏と「鳥の視点」文化圏では、常識の構造や特性が異なるかもしれません。人間関係も感性も異なるかもしれません。調べていくと面白そうです。

空腹感とつきあう

(1)体からの信号

食べすぎた翌朝はお腹が空きます。食べられるうちにたくさん食べておきたいと体が判断して、胃腸が活動準備完了となったことを知らせてくれているのではないかと思います。進化の過程で身に付けた、食料調達が容易ではなかった時代の名残ではないかと思います。

現代日本では食べ物が有り余っています。いつでもどこでも好きなだけ食べることができます。飽食の時代に、胃腸から空腹信号が上がってくるたびに食べていると、胃腸は疲れ果ててしまうのではないかと思います。まさに、大量生産・大量消費・大量廃棄の時代を象徴する食べ方だと思います。

日々の暮らしの中で、体からは様々な信号が上がってきます。緊急事態を告げる信号もあれば、休息が必要なことを告げる信号、活動準備完了を告げる信号もあります。それぞれの信号の意図を理解して、心身の自然な営みを大切にしながら暮らしていきたいと思います。


(2)空腹感

ところで、体からの空腹信号には何種類かあるように思います。

  1. まずは、食事の時間になったときに感じる空腹感です。体が食事を求めているというよりも、生活習慣からくる空腹感ですので、たまに無視しても健康上の問題が発生することはありません(例えば、仕事が忙しくてお昼ご飯を抜いても、何の問題もありません)。もしかしたら、胃腸が活動準備完了になったことを告げる信号を空腹感として感じているのかもしれません。

  2. 次は、小腹が空いたときに感じる空腹感です。たくさん食べて胃腸が消化で忙しくなったあと、再び受け入れ可能になったときに感じるのではないかと思います。間食や夜食のきっかけになることが多いのではないかと思います。無視しても健康上の問題が発生することはありません。これも、胃腸が活動準備完了になったことを告げる信号を空腹感として感じているのではないかと思います。

  3. もうひとつ、胃が鳴るときに感じる空腹感です。胃の消化活動が終わって、内容物を腸に送り出すときに、内容物の状態によっては音がすることがあるそうです。無視しても健康上の問題が発生することはありません。

  4. それから、血糖値が下がったときに感じる空腹感です。食料が十分にはなかった時代には、血糖値が大きく揺れるのは当たり前だったのではないかと思います。そのため、どんな血糖値でもそれなりに元気に活動できる体の使い方を知っていたのではないかと思います。ただし、常に血糖値が低めなので、常に空腹感を感じていたかもしれません。ところが、飽食の時代には血糖値が常に高水準にあります。そのため、少しでも下がると、適切な体の使い方がわからなくなって、フルパワーで動いてめまいがしたり、場合によっては倒れたりするのではないかと思います。そこで、血糖値がいつもより下がって、体の勝手が変わったときに、空腹感を感じるのではないかと思います。

私の経験の中からすぐに思い出せたのはこの4つですが、他にもあるのではないかと思います。

一旦空腹感を感じると、心の中で反響して、空腹感が増幅されることが多いように思います。心の中で反響させなければ、空腹感は大概すぐに消えていきます。

肉体が必要とする食事と、上述の空腹信号は、直接はリンクしてないように思います。肉体が求める食事さえしていれば、空腹信号は気にしなくても問題ないと思います。