法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

まずは復習から

1〜2年前に技術的作業のリハビリと称して取り組んでいたものの、中途半端な状態で中断したまま手付かずとなっているプログラムのことが気になってました。そこで今日は久しぶりに、復習のために関連資料をいくつか読みました。また、2週間前に公開されたばかりの最新版 macOS 11 での変更点も、関連するものについて調べました。

気のせいか、以前よりも技術資料を読むのが楽になっているように思いました。以前は、技術資料を読むときはグッと集中力を高める必要があったように思いますが、今日は肩の力を抜いて読むことができました。しかも、1〜2年前には理解できなかった部分が、今日は簡単に理解できました。

まだ波には乗れてませんが、滑り出しとしては好調だと思います。


技術資料を読むのが楽になっている件、私はソリティア(正式名クロンダイク)に取り組んだ影響が大きいのではないかと思っています。

以前は、普段は脳を省エネ・モードで使って、技術的なことに取り組むときは脳の回転力をグンと上げてました。別の言い方をすれば、脳全体を活性化させようとしていた、と言えるかもしれません。そのため、その場面で働かせるべき部位の活性化が不十分な上に、休ませるべき部位まで活性化していたようで、思考効率が悪いのに、脳全体が徐々に疲労していきました。

しかしここ4ヶ月ほどソリティアに取り組んできたお蔭で、脳の回転力をほどよく上げるコツを少し掴んだのかもしれません。別の言い方をすれば、働かせるべき部位のみをしっかり活性化させて、残りは省エネ・モードのままにするためのコツを、多少なりとも掴めたのかもしれません。

とは言え、まだ十分には慣れてないようで、ほどよい状態はあまり長続きしてくれません(笑)。そのため、技術資料を読もうと思ったら、やっぱり休憩をこまめに取らないといけません。しかし、継続的に取り組んでいれば、だんだんと上手になっていくのではないかと思います。

リハビリはまさに「継続は力なり」の世界ですから、これからも効果のありそうなリハビリを見つけては、黙々と続けたいと思っています。

気分転換の日

ここしばらく、複雑度のあまり高くない思考能力のリハビリとしてソリティア(正式名クロンダイク)に取り組んできました。昨日で一区切りついたので、次は複雑度のやや高いリハビリに取り組みたいと思っています。

しかし、すぐには気持ちを切り替えられず、ワクワク感も不足して、結局、今日は気分転換の日となりました。

ソリティア成功2020回

8月上旬から取り組んでいるソリティア(正式名クロンダイク)の通算成功回数が、ようやく2020回に達しました。(通算試行回数1万1147回、通算成功率約18%)

猛暑の季節から初冬まで、4ヶ月近くかかりました。(実はここ半月ほどの猛ダッシュが大きくきいてます)

10/19(月) に1111回を超えてからは、成功回数を西暦に見立てて、歴史の流れを思い出しながら取り組みました。そのため、2020回目は大きな区切りとなります。ここから先は未来です。

ソリティアは、複雑度があまり高くない場合の思考能力のリハビリとして、かなり役に立ったように思います。そろそろソリティアを使ったリハビリはおしまいです。

平和でありますように

映画『スターウォーズ』で有名になったフレーズと、とてもよく似たフレーズを見かけました。

May the Force be with you
May peace be with you

私は後者のフレーズの方が好きです。他人を無理矢理操ったり、暴力でやっつけたりするのは、なんとなく好きになれないからです。

今は “May peace be with the US.” も大切な時期かもしれません。

無農薬・無化学肥料のお米とお味噌

収穫祭マーケットで無農薬・無化学肥料のお米とお味噌を農家さんから購入しました。お米は自然栽培なので無肥料です。農家さんの顔を見ながら購入できる機会はとてもありがたいです。

私は食事の量が世間の常識より少ないからでしょうか、添加物等には体が反応しやすいです。そこで食事量として一番多い玄米は、無農薬・無化学肥料のものを買うようにしています(最近は自然栽培のものを選ぶようにしています)。


その一方で、脳の回転力を高めるためにジャンク・フードを食べることが多いです。添加物たっぷりなので、どうしても体のあちこちが反応します。そこでこれまでに色々と食べ比べたものの中から、体の拒否反応の少ないものを選ぶようにしています。同じ銘柄を続けると軽い拒否反応が出ることがあるので、複数の銘柄から、その時の気分で選んでいます。とは言え、特定の銘柄に偏ることが多いです。

スーパーに行くと工業製品の飲食物がズラリと並んでいます。それぞれの食品に対する拒否反応は、体内に蓄積されている添加物との相性が大きいのではないかと思います。そのため、人によって食べられるもの、食べられるものは少しずつ違うのではないかと思います。私は限られた種類の銘柄しか食べなくなってしまいました。お蔭で、買物の際には特定の棚にしか行かなくてよいので、とても楽です。

動機の棚卸し

あれから2週間が経ち、脳の回転力はだいぶん回復してきているのですが、やる気がまだ回復してません…

と言うよりも、なんとなく、進むべき方向を見失っています。

あちらから進もうと思って準備すると、突発的なことが起きて中断する。それではと、気分を変えてこちらから進もうと思って準備しても、やはり突発的なことが起きて中断する。そうこうするうちに、どこに向かって進もうとしていたのか、自分でもわからなくなっています。

かつて進みたいと思っていた方向に、本当に今も進みたいのか。それとも、動機が不適切・不十分で、気持ちがすぐに折れてしまうだけなのか。あるいは、どこか準備不足で、ちょっとしたことで中断せざるをえなくなるのか…

現状の回復状況等を踏まえた動機の棚卸しが必要となっているのかもしれません。

近藤等則(著)『いのちは即興だ』

エレクトリック・トランペットの即興演奏者として世界各地で活動されていた近藤等則さんが、先月亡くなられたそうです。1ヶ月遅れで訃報を聞いて、近藤等則(著)『いのちは即興だ』を本棚から引っ張り出して十数年ぶりに読みました。大断捨離を経ても手放す気になれなかった一冊です。

本当は読後の感想文を書きたかったのですが、どうにもこうにも文章になりません。そこで本を読みながら書き写したメモを投稿します。

とても興味深い本でした。有限の地球で無限の宇宙を表現された方ではないかと思いました。


近藤等則(著)『いのちは即興だ』より

第1章 地球を吹く

  • 死というのは何かと言ったら、何兆個もの細胞の共振・共鳴が終わるときが死で、だから、都会でどんな生活をしていても、生きているということは、実は、一つひとつの細胞のレベルまで、宇宙と共鳴しているんだと思いますよ。(p.23)

第2章 危険な道を選んできた

  • なぜかというと、ミュージシャンの道を選んだほうが、死ぬときに笑いながら死ねると感じたからです。本当に単純に、よくわからないけれど。(中略)それで一瞬にして、僕はミュージシャンになろうと決めたんです。(p.36)

第3章 いのちが求めるもの

  • 自分のいのちに一日でも、一回でも、ウソをついたらやばいな、というのがあって。(p.75)

第4章 無意識を解放する

  • それで、今の人間社会が行き詰まっている原因の一つは何かというと、僕が思うには単純で、本当の意味での“地球との共振・共鳴感覚”というものを失ってしまったからではないかと思うんですね。(p.88)

第5章 即興演奏の極意

  • Aといういのちと、Bといういのちと、Cといういのちが勝手に生きている。もう関係なく自由にやっている。でも、三つの音がバラバラになっているのを全部把握できる耳とクリアーな近くがあれば、そのほうがはるかに美しいアンサンブルになると思うんですね。(p.106)

第6章 心技体まるごとの鍛錬

  • でも、それが僕なんかは「あ、ジャズのミュージシャンの生き方に近いな」と思ったんです。なんや、ジャズ的な生き方が親鸞の中にもあじゃないか、一休の中にもあるじゃないか、空海もすごいな、一遍もいかしてるな、とね。(p.124)

  • それで、こういう先人たちのことを調べるうちに、「心身一如」とか「心技体」という日本古来の考え方もわかってくるし、アメリカへ行ってサシで黒人とドンパチするには、身体と精神と技術、この三つをまるごと準備しなきゃいけないなと思ったんですね。(p.125)

第7章 音の可能性

  • いのちは音なんです。音を出すから、いのちなんです。風が、光が、草が、木が、花が、山が、川が、海が、空が、鳥が、虫が、動物が音を出していますよね。いのちは振動だともいえます。振動が終わると、いのちも終わるんです。(p.142)

  • 二十世紀の音楽が「人間の音楽」だったとしたら、二十一世紀は「いのちの音楽」の時代になると思うんですよね。(中略)「いのちの音楽」は都市ではなく、生きている自然の「いのちの場」から生まれるはずです。自然のいのちといっしょに演ってみてほしいですね。(p.161)


第8章 いのちに忠実に生きる

  • 今の僕の実感をいうなら、この広大無辺な宇宙の中の、きわめて小さな地球という星の上に、何十億年かのタイムの中で、こうやって今この瞬間に「近藤等則」という名前の人間として生きているということ - これほどの奇跡はない、というのが基本的な思いですね。(p.165)

  • 生まれて、努力して、やっと幸せになるとかじゃなくて、人間として生まれて存在しているというだけで、もうミラクルといえるぐらい祝福されているんだ、と。地球上に空気を吸って生きているだけで奇跡なんだという感覚を、なんで一人ひとりがもたないんでしょうかね?(p.165)

  • 何かをやった結果として幸せがあるんじゃなくて、人生というのは、はじめから幸せがあると考えたほうが楽なんじゃないかな、と僕は思うんですけどね。そうしたら、幸せになるための無理やりの努力なんて、本当は必要ないはずですよ。(p.166)

  • 僕の場合は、生きている楽しさは、生きているプロセスそのものにあると感じるんです。(中略)僕は即興演奏派だから、生きているプロセスこそ、いのちそのものだと思うんです。(p.166)

  • だから僕の場合は、自分のいのちにウソをつかないで、一日一日を充実して生きるということしかないんですよ。いのちが求めることをただ無心に演っている、この瞬間瞬間を楽しむというだけで。(p.167)

  • それで、結果としていのちがどこに僕を導こうと、そこが自分に一番ふさわしいところなんだから、先の心配なんかしないで、一日一日いのちが求めることを即興的にやっていく。(p.167)

  • それなのに、わからないということを恐る人は、自分のいのちがこうしたいと感じても、わかっているワクの中に自分を押しとどめてしまうでしょ。それでは「いのちの解放」というか「無意識の解放」はできませんよね。(p.168)

  • 悟りとはどういうことかというと、自分のいのちの中に、ある種の無限性を見つけることでしょ。(p.171)


下記で、第6章の抜粋(もしくは元になったトークの一部)を読むことができます。