法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

坐禅会の感想

先日、とある坐禅会に参加しました。私は自宅では坐禅も瞑想もなかなか続けられないでおりますが、老師が作り出す場がすばらしいので、私でも坐禅を楽しむことができてとてもありがたい会です。

坐禅会に参加すると、潜在意識の奥底に溜まっているモヤモヤしたもの、顕在意識からは決して見えないところで吹き溜まりになっているヘドロのようなもの、そういったものが少しずつ溶け出しは消えているのではないか…。そんな風に感じています。坐禅会からのあとは気持ちが朗らかなのは、これが理由ではないかと思います。

面白いもので、坐禅会から時間が経つにつれて、心の様相が再び変わってきます。これは私だけかもしれませんが、かつて一旦は消えていたと思っていた感情や、すっかり忘れていた感情が、再び湧き上がってくるようになります。ただし、かつてよりは弱まっているように思います。これは想像ですが、坐禅会を通して潜在意識の奥底から溶け出してきたものの十分には消えなかった感情が、顕在意識にも見えるところまでゆっくりと浮き上がってきたのではないかと思っています。十分には消えなかっただけで、随分と弱まってますので、日常の中で少しずつ消していける範囲だと思います。遅くとも次回の坐禅会で消えてくれるのではないかと思います。

これまでの体験から、坐禅会に参加すればするほど、潜在意識の奥底に溜まっているものが少しずつ消えていってくれるのではないかと思っております。やがて傍目にもわかるくらいの質的な転換が起きるかもしれません。私のような罪悪深重・煩悩熾盛の愚夫は、質的な転換を何度も何度も繰り返す必要があると思います。坐禅で「ほどけていく」とは、こういうことを指すのかな、と思っています。坐禅会を通して次第次第に変わっていけるとよいなと思っております。


坐禅会参加の目的

例えば、とんでもない目にあったとします。仏教の観点からは、その出来事自体は因縁の現れですので 、文字通り自業自得だと思います。怒りや憎しみの感情が立ち現れてきますが、それは私自身の煩悩なので、どんなに時間がかかっても私自身の手で(自力で/他力で)消し去らねばなりません。私の心から煩悩をすっかり消し去ることができたなら、その出来事から私が学ぶべきことは、とりあえず終わりです。

そんな風に思っているのですが、「はたして本当にここで終わってよいのか?それともその先もあるのか?」、この疑問に対する答えを見つけることも坐禅会に参加している目的のひとつです。

少し前から、「自未得度先度他」がその答えではないかと思うようになりました。「自分が救われ幸せになる前に、まず人様が救われ幸せになる」ことを願う言葉だそうです。ご縁ある方々が救われ幸せになることを願う。心の苦しみから解放され、悟りを得ることを願う。この世の価値観で良縁に見えようと悪縁に見えようと関係なく、仏教の観点からはすべてが貴重なご縁だと思います。ご縁ある方々が苦しみから解放されて清々しい気持ちで生きていけることを願い、そのために働くことが大切ではないかと思うようになりました。

最近は、「弱きを助け強きを正す」も重要ではないかと思うようになりました。前半の「弱きを助け」の部分は仏教の『抜苦与楽(慈悲)』にあたるのではないかと思います。あるいは『慈悲喜捨(四無量心)』かもしれません。後半の「強きを正す」の部分は、よく言われる「強きを挫く」のままでは仏教と相性が悪いように思ったので、仏道に導くための『摂受・折伏』の気持ち、あるいは「自未得度先度他」の気持ちを表現したくて「強きを正す」としています。

すなわち、煩悩滅却という大きな大きな目標の先に(あるいは並行して)あるのは、とんでもない目にあわせた人に対する「自未得度先度他」や「弱きを助け強きを正す」の実践ではないかと思うようになりました。

いずれも座禅会で直接教えていただいた訳ではありませんが、坐禅会を通して心身がほぐれたからこそ、このように思うようになったのではないかと思います。座禅会に参加した成果のひとつだと思っています。

また参加したいです。