法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

思野狭窄と暮らす

(1)思野狭窄

私は「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」の症状があって、一度に考えられる範囲が発症前と比べると随分と狭くなりました。そのため例えば、たくさんの条件をバランスよく考慮しながら計画を立てようとすると、思考対象が「思野」から大きくはみ出してしまいます。

慣れたことであれば、上手に条件を絞って「思野」の範囲にうまく収めて、無理なく考慮することができます。しかし、慣れないことは条件を絞るための思考作業自体が難しく、右往左往するしかありません。幸い、グッと集中力を高めると条件が多いままある程度考えることができるのですが、その代わりに脳に過負荷をかけてしまいます。

※「脳の疲労」も「脳に過負荷」も感覚的な表現です。おそらく、脳の壊れかけた部分を強く刺激した結果、健康な人には想像もつかないような疲労状態に陥ってしまうのだと思います。感覚的には、脳が重いような、フラフラなような、エネルギーの通りが悪くて硬くて痛いような、言葉にはしにくい状態になります。


(2)ミニドーナツ

私は聴覚情報処理障害のような症状があって、普通にしていると、普通速度のお話を聞き取ることができません。幸い、グッと集中力を高めると聞き取り能力が上がるのですが、その代わりに脳に過負荷をかけてしまいます。

ネットの動画サイトを見てみると、興味深そうな動画がたくさん並んでいます。しかし残念ながら、字幕のついたゆっくりめの短編動画(10分程度)しか理解することができません。

いつのことだったかは忘れましたが、講演動画を再生したものの十分には聞き取ることができず、すぐに諦めてしまったことがありました。しかしせっかくなので、講演を BGM 代わりにして、ソリティア(正式名クロンダイク)を始めました。気分だけでも味わおうと思ったからです。ところが意外なことに、ソリティアをしながら聞くとはなしに聞いていると、思ったよりも理解できることがわかりました。もちろん、ソリティアをしながらのことなので、十分に理解できる訳ではありません。しかし、動画に集中して聞くよりも、ソリティアをしながらの方が随分と楽に概要を把握できました。(このとき見つけた方法はたまに活用してます)

その体験を通して思ったのですが、私は「思野」が狭いだけでなく、「思野」のど真ん中も壊れているのかもしれません。そのため、理解したいことを「思野」の中心に置くよりも、中心から少し外れたあたりに置いた方が、残された理解力を発揮しやすいのかしれません。

もしもそうだとすると、私の「思野」はミニドーナツ型なのかもしれません。


(3)変性意識

発症直後の読み書きのリハビリを思い出してみると、、顕在意識のままでは思うように読み書きできないので、少し変性意識状態に入るようにしてました。そして意識状態を微調整しながら、読み書きに適した意識状態を見つけては、それを身に付けていくことが当時のリハビリのメイン作業でした。おそらく、生き残った脳機能を上手に活用することで、なんとか読み書きできる方法を探っていたのだと思います。

その影響で、今も読み書きは少しばかし変性意識状態に入って行っているように思います。変性意識に入ることで、顕在意識の「思野」への負荷をできるだけ小さくしているのかもしれません。

会話能力のリハビリが思うように進まない理由のひとつは、会話をしながら変性意識に入ることが上手にできないからかもしれません。瞑想を習慣としている人との会話が比較的楽なのは、会話をしながら少しばかし変性意識に入ることができているからかもしれません。アート系の人との会話が少し楽に感じるのも、もしかしたらアート系の人は制作作業中は瞑想状態に入っている人が多いことを意味しているのかもしれません。ということは、私自身が深い瞑想を習慣化して、誰と会話するときでも簡単に変性意識に入ることができるようになれば、会話能力がグンと伸びるかもしれません。


(4)潜在意識

発症前は、頭脳作業を始めるにあたっては、最初に作業の全体像を理解して、それから作業計画を立てて、ひとつひとつ作業していたように思います。

ところが発症後は、「思野狭窄」の影響で作業の全体像を理解することができないことが多くなりました。そこで潜在意識につながって、潜在意識から浮かび上がってくるままに作業するようにしています。潜在意識からの情報を上手に受け取ることができれば、自分でも不思議なくらいピタリピタリと作業が進みます。おそらく、潜在意識のどこかに潜んでいる「昔取った杵柄」が作業手順を上手に組み立ててくれているのだと思います。(ただし、作業速度は発症前と比べると随分とゆっくりです)

リハビリ作文も、潜在意識から浮かんでくるままに書いています。顕在意識で考えて作文することもできますが、その場合はかなり簡単な内容しか書けません。潜在意識と上手につながることができると、比較的複雑な内容を書くことができます。リハビリ作文を通して表現力や掘り下げ力を高めようと思ったら、潜在意識につながった方がリハビリ効果が大きいように思います。

おそらく、潜在意識はほとんど壊れていないのではないかと思います。もしかしたら、壊れているのは、顕在意識の「思野」の部分だけかもしれません。頭脳作業をするときに、顕在意識の「思野」にできるだけ頼らない方法を見つけることができれば、できることが随分と広がるのではないかと思います。

ところで、潜在意識とつながるためには、少しばかり変性意識に入る必要があります。変性意識のお蔭でなんとか暮らしていけてます。


(5)肉体作業

肉体作業については、発症直後と比べると血行が随分と改善しているお蔭で、ものを運ぶような単純な力作業は比較的楽にできます(あまり重くないものに限ります)。ところが、例えば障子の掃除のような手先の細かさを求められる作業は、脳に負荷をかけがちで、まったく楽ではありません。

肉体作業と言っても、実は一番重要なのは、脳への過負荷を避けることにあります。

ひょっとしたら、細かい作業では手先を上手にコントロールするために、ついつい「思野」のど真ん中を使ってしまうので、疲労が大きいのかもしれません。「思野」の中心から少し外れたあたりを使って掃除をするような工夫ができると、少し楽になるのかもしれません。

あるいは、細かい作業をするときも、変性意識に入るようにするとよいのかもしれません。肉体作業をしながら変性意識に入るような工夫ができると、様々な肉体作業が随分と楽になるかもしれません。


(6)取らぬ狸の皮算用

発症から年月が経ち、回復したことと、回復してないことの差がものすごく大きくなりました。

頭脳作業においても、肉体作業においても、一番重要なのは上限値を超えないことです。体と脳の上限値を超えない範囲で作業する方法を身に付けられるかどうかが一番重要です。上限値を超えた途端に体や脳に過負荷をかけてしまって、作業を継続できなくなったり、疲労が長らく残ったりします。体と脳の上限値を超えない範囲で、最高のパフォーマンスを出すことが大きな目標です。

ある程度リハビリが成功した能力は、上限値を超えない方法を身に付けられたものだけです。これまでに身に付けたコツを、まだ回復してない能力に応用することができたなら、暮らしが随分と楽になるかもしれません。まったくの「絵に描いた餅」と言いますか、「取らぬ狸の皮算用」ではありますが…