法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

幼心(おさなごころ)の中に未来の鍵がある

(1)幼い頃の感受性

幼い子どもはいろんなことに疑問を持ちます。「これはなんだろう?」「あれはなぜだろう?」 いろいろ体験したり、教えてもらったりしながら、身の回りのことについて学んでいきます。毎日が新鮮で感動的で、知見がどんどん広がっていきます。

ところがいつの頃からか、過去の知見を通してものを見るようになります。「これは○○のはずだ」「あれは□□にちがいない」… 毎日新たな体験をしているはずなのに、すべてを過去の知見の延長線上に位置付けてしまいます。毎日が退屈で、生きる意義を見失いそうになります。

幼い頃はすべての瞬間が新鮮で感動的だったのに、あの日々はどこに行ってしまったのでしょう…


(2)考えないで感じる

世の中を見回してみると、「私は何でもわかってる」と思いたい人が多いように思います。

本当にわかっているかどうかはどうでもよくて、とりあえずそう思いたいみたいです。

そのため、何かを見たり聞いたり体験したりするたびに、頭の中をまさぐって、何か結論を出したいようです。それが本当に正解かどうかはどうでもよくて、とりあえず「これが正解だ」と思いたいようです。(ただし、隠し味として謙虚さを好む人もいるようです)

そうやって四六時中、頭の中をまさぐっているので、意識の重心が「体験」ではなく「空想」にあるのではないかと思います。言い換えると、「いま・ここ」ではなく「過去のどこか」にあるのではないかと思います。それがゆえに、新たな体験が新鮮さを失い、感動も失っているのではないかと思います。

逆に言えば、頭の中をまさぐるのをやめて体験に集中すれば、幼い頃に感じた新鮮さと感動が蘇ってくるのではないかと思います。そして時間の密度が濃くなるのではないかと思います。ありきたりの言葉で言えば、「考えるな、感じろ」が重要なのかもしれません。それが「いま・ここ」に戻る秘訣なのかもしれません。

同様に、大好きなことやワクワクすることに取り組んでいると、体験に集中できて「いま・ここ」に戻ることができるのではないかと思います。


(3)未来のために

もしかしたら、現代社会を生きていく上で「私は何でもわかってる」感を醸し出すことは重要なことなのかもしれません。そのような態度を取る人が高く評価されて、逆に子どものように何にでも高い感受性を示す人は低く評価されてしまうのかもしれません。

しかし、「私は何でもわかってる」と思っている人は、学びがなくなって成長が止まってしまうと思います。見栄より中身を重視したい人は、「私は何にもわかってない」ことを前提にした方がよいと思います。

現代から見ると百年前の常識は非常識、千年前の常識は迷妄信に見えると思います。同様に、現代の常識は百年後から見ると非常識、千年後から見ると迷妄信に見えることと思います。現代の常識にこだわることなく、未来のために知見を広げていくことはとても重要なことだと思います。そのためには幼い頃の感受性を蘇らせる必要があるのではないかと思います。

私は、幼心(おさなごころ)の中に未来の鍵があるのではないかと思っています。

睨むより話し合い

(1)にらみつける

例えば、AさんがBさんを睨みつけているとします。おそらくAさんは、心の中でBさんのことを責めているのだと思います。

このとき、AさんとBさんの間に共通理解があれば、睨みつけるだけで気持ちが通じて、Bさんは行いを改めることと思います。そしてAさんは事細かく口にしなくて済んでホッとすることと思います。

しかし、AさんとBさんの間に共通理解がなければ… Bさんはキョトンとするしかありません。Aさんは怒りに燃えてさらに激しく睨みつけるしかなくなって、事態は膠着してしまうかもしれません。


(2)共通理解

一般論で言えば、悪いとわかっていることを繰り返す人は少ないと思います。仮に繰り返す人がいるとしたら、その人なりの理由があってのことだと思います。あるいは心の弱さがあってのことだと思います。それを睨みつけるだけで解決しようというのは、虫がよすぎると思います。その場で取り繕ったとしても、実際には何も変わらないのではないかと思います。

また共通理解は、強い信頼関係と濃密なコミュニケーションがあってこそ得られるものだと思います。本当に共通理解があれば、睨みつけなくてはいけない事態は滅多にないことだと思います。仮に悪いとわかっていることを繰り返したとしても、その背景はお互いにわかっているはずなので、その場で協力して適切な対策を取ることができるのではないかと思います。

逆に言えば、睨みつけるということは、共通理解が足りないということではないかと思います。睨みつけても人間関係を悪くするだけで、何も解決しないのではないかと思います。


(3)対話する

人様を睨みつける習慣のある人は、「私は何でもわかっている」と思う傾向があるのではないかと思います。そして「あなたも私と同じ気付きを得るべきです、自分で考えなさい」と思って、目で合図を送っているのかもしれません。このとき、責める気持ちが強いので、睨みつけてしまうのではないかと思います。

ところが、世の中に何でもわかってしまう人はいないと思います。何でもわかっていると思っている人は、たいてい勘違いをしているように思います。大きな誤解に基づいて「あなたは間違っている」と思っているので、相手は気付きようがありません。そのため、力関係を利用して忖度を引き出す方向に持っていかざるを得ないのではないかと思います。

ちゃんと話し合えば事情が詳しくわかってベストな方法が見つかるかもしれない状況なのに、強者が弱者に忖度を強要してその場しのぎの方法が取られてしまう。ひょっとしたら最悪な方法が取られてしまうかもしれない。そんなことがあちこちで起きているのではないかと思います。

目で合図を送る(睨みつける)のではなく、丁寧に話しあうことが大切ではないかと思います。

かきだして俯瞰する

(1)リハビリ作文

文章を書くリハビリとして、毎日作文を書いています。

発症直後は数十文字の文章を書くことすら簡単なことではありませんでした。しかし、リハビリ作文をコツコツと続けてきたお蔭で、ありがたいことに一年余り前から作文能力が急速に伸びています。

私は口頭での説明能力が低いので、用件はお手紙に書いて持っていくことが多いです。以前はお手紙を書くことすら四苦八苦してましたが、最近はだいぶん楽に書けるようになりました。お蔭でお手紙を書いて持っていく機会も増えました。


(2)嬉しい悲鳴

その一方で、嬉しい悲鳴も上げなくてはいけなくなりました。

毎日の作文をリハビリとして有意義なものにするためには、文章量を増やさなくてはいけなくなったからです。日々の出来事だけでは文章量が足りないので、作文のテーマを日替わりで選ばないといけなくなりました。

ところが私は「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」なので、顕在意識の思考力で作文のテーマをあれこれ考えることがほとんどできません。

そのため、潜在意識から湧き上がってくることをテーマに選ぶことが多いです。その日感じたことだったり、潜在意識の中でしばらく醗酵させたものだったりなど、内容はさまざまです。いずれにしてもテーマ選びは潜在意識まかせです。


(3)学びの機会

それを文章に書き出して推敲していると、そのテーマについて改めて俯瞰的に見ることができるので、新たな発見につながることがよくあります。たまに図に描き出すことがあるのですが、視覚化することで理解がさらに深まります。

潜在意識から湧き上がってくるテーマについて、あらかじめおおよその流れを把握してから書き始めることもあれば、とりあえず湧き上がってくるままに書き進めることもあります。後者のパターンの方が、思わぬ展開を経て思わぬ結論に至ることが多く、学びが大きいです。(顕在意識からの干渉が少ないからだと思います)


(4)作文の効能

毎日の作文の一番の目的は、言うまでもなく作文能力のリハビリです。

ところが最近は、前述の通りリハビリ作文を通して様々なことを学んで、新たな視点を得ることがよくあります。そんなこんなで私にとってのリハビリ作文の位置付けが少しずつ変わりつつあります。

毎日の作文は、文章能力のリハビリであると同時に、学びの場でもあり、またエッセイを書く練習でもあります。リハビリであることを意識せずに楽しめるので、とてもよい傾向だと思います。

電子書籍と紙の本

(1)電子書籍

3ヶ月ほど前から Amazon Kindle Unlimited を利用して電子書籍を読むようになりました。最初は「紙の本の方が読みやすいなぁ」と思っていたのですが、わずか3ヶ月余りで「電子書籍は読みやすいなぁ」と思うようになりました。

一番の理由は、手に持たなくてもよいことです。パソコンの画面で読んでいるので、椅子に座って胡座をかいて、手を足の上に乗せて、頭を少しだけ前に傾けた姿勢で読むことができます。手を使うのはページをめくるときくらいです。ちょうど座禅か瞑想をしているかのようなリラックスした姿勢で読むことができます。

それに対して紙の本を読むときは、本を手で支えながら、頭をだいぶん前に傾けないといけません。また、照明にも気をつけないといけません。以前はそれが当たり前だと思っていたのですが、電子書籍を読むようになってから、ちょっと面倒に感じるようになりました。

二番目の理由は、iMac のディスプレーの解像度が十分に高いからだと思います。目に優しいので長時間読んでも疲れません。画面サイズも十分に大きいので、ページをめくる頻度は高くありません。紙の本と同じくらい快適に読むことができます。

三番目の理由は、図書館に行かなくてもよいところです。自宅で椅子に座ったまま、読みたい分野の本を探して、その場ですぐに読むことができます。あっ、これは読みやすさというよりも、便利さですね。

そのような訳で、通読するなら電子書籍、と思うようになりました。


(2)紙の本

しかし、紙の本は使い慣れているだけに、便利なところは多いです。

例えば、紙の本であれば「○○については、たしかあの辺りに書いてあった」と物理的な位置で思い出すことができますが、電子書籍では書いてあった場所はなかなか思い出せません。検索機能はありますが、特徴的な単語を思い出せない場合は、たくさんの検索結果の中から探さないといけなくなります。

また、紙の本であれば参照したい他のページに指か栞をはさんでチラチラ見ながら本文を読み進めることは簡単ですが、電子書籍ではページを行ったり来たりすることにまだ慣れてません。(電子しおりが上手に使えるようになると、行き来が楽になるかもしれません)

紙の本であれば机の上に読みたい順に積んでおくことができますが、電子書籍はアプリが決めた順(最近読んだ順番)に並ぶので、うっかりすると読もうと思っていた本が埋もれてしまうことがあります。

そのような訳で、あちこち参照しながら読むなら紙の本の方が便利だと思います。例えばじっくり勉強するための本や、大きな図表が多い本です。


(3)使い分け

幼い頃から慣れ親しんだ紙の本と、使い始めたばかりの電子書籍。今は紙の本の方が気持ちが落ち着きますが、電子書籍の便利さも少しずつわかるようになってきました。

きっと時間とともに電子書籍にさらに慣れて、電子書籍ならではの便利さをいっぱい見つけていくことと思います。また、年月とともに電子書籍システムもどんどん便利になっていくことと思います。それと同時に、紙の本のよさをしみじみと再発見できるのではないかと思います。

いまは、紙の書籍でないと入手できない本はたくさんあります。逆に、電子書籍だからこそ入手しやすい本もたくさんあります。図書館と電子書籍を上手に使い分けたいと思います。

消極的アヒンサー(非暴力)と積極的アヒンサー(非暴力)

(1)感情と想像

この世で生きていると、いろんなことを見たり聞いたり、体験したりします。

そんなとき、咄嗟に様々な感情が浮かんできて、それから「どうしたんだろう」などといろんなことを想像して、やがて「きっとこうに違いない」と総括するのではないかと思います。

何かあるたびに、心の中はこんな風に動くのではないかと思います。それが四六時中続いているのではないかと思います。

しかし、心の中に瞬時に浮かぶことは、事実に基づいたものというよりも、一人一人の心の反映ではないかと思います。心の中には、劣等感・欲望・優越感・トラウマ(心の傷)や、人間観・世界観・宇宙観など様々なものがあると思います。何かを見聞きしたり体験したりするたびに、それらが大きな刺激を受けて、心の中に様々な感情や想像を生み出しているのではないかと思います。


(2)天国と地獄

したがって、同じできごとを体験しても、心に浮かぶことは人によって全然違うのではないかと思います。それが積もり積もって、一人一人がまったく別の思い込みや心の傷を持ち、まったく別の人間観・世界観・宇宙観を持って生きているのではないかと思います。

生まれてこのかたの蓄積が様々な感情や想像を生み出し、そうやって生み出された様々な感情や想像が心の中に蓄積されていく。その結果、幼い頃に形作られた思い込みや心の傷は、年月とともにどんどん強化されていくのではないかと思います。まさに「三つ子の魂百まで」ではないかと思います。

その根源をたどっていくと、人それぞれの執着・煩悩に突き当たるのではないかと思います。人それぞれの煩悩が、人間観・世界観・宇宙観の違いに大きな影響を与えているのではないかと思います。

そのため、同じところで同じような暮らしをしている人たちであっても、ある人は天国にいるような気持ちで暮らしていて、すぐ隣の人は地獄の苦しみを味わいながら暮らしているかもしれません。長い人生の中で心境や状況が揺れ動いて、天国と地獄を行ったりしている人もいるかもしれません。


(3)アヒンサー

インドにアヒンサー(非暴力)という言葉があります。

私の勝手解釈では、この言葉は肉体的な暴力をふるわないだけでなく、心の中に攻撃的な気持ちを抱かない、という意味だと思います。しかしこれではちょっと消極的なので、最近はさらに一歩踏み出した解釈をするようになりました。

一人一人は煩悩ゆえに、様々な人間観・世界観・宇宙観を持ち、日々の暮らしの中で様々な感情や想像を抱きながら生きています。

仮に、目の前の人が煩悩ゆえに地獄の苦しみを味わっているのであれば、そしてその苦しみゆえに周りの人たちに対して攻撃的・破壊的な言動を繰り返しているのであれば、、

そのような人たちに対して暴力的な態度を取ったり攻撃的な気持ちを抱いたりしない「消極的アヒンサー」だけでなく、煩悩ゆえの地獄から救い出す「積極的アヒンサー」が大切ではないかと思うようになりました。

言い換えると、仏教で言うところの「抜苦与楽」、キリスト教圏的で言うところの「純粋で無条件な愛」まで踏み込まないと、本当のアヒンサーにならないのではないかと思うようになりました。これはアヒンサーから一歩踏み出しているようでいて、実際にはアヒンサーの一側面ではないかと思います。生き方に対する視点のちがいが、表現の違い(言葉の違い)に表れているだけではないかと思います。

「消極的アヒンサー」も「積極的アヒンサー」も今の私にはとてもとても難しいことです。しかし、まずは夢見るところから始めたいと思います。

失敗を恐れない

聞くところによると、座禅では姿勢を整えることが大切だそうです。そこで座禅に入る前に、上半身を前後左右に揺らして中心位置を見つけるそうです。敢えて中心位置から外れて揺れることで、中心位置を見つけやすくしているのではないかと思います。

ここでちょっと飛躍すると、、敢えてたくさん間違えるからこそ、正解を見つけやすくなるのかもしれません。間違いの度合いを感覚的に認識できるようになれば、自然に正解が感覚的にわかるようになるのかもしれません。座禅の姿勢に限らず、何ごとにおいても同じことが言えるのではないかと思います。

例えば若いうちにたくさん間違えておくことは大切なことかもしれません。若者の失敗は世間から大目に見てもらいやすいですし、取り返しがつきやすいからです。同様に、初心のうちに失敗を重ねておくことも大切なことかもしれません。他人から言われるままに自分に制限を課すよりも、体験を通して良し悪しの感覚を身につけた方が、長い目で見て伸びると思うからです。

囲碁や将棋の世界でも、トップ棋士は敢えて常識外れの手を選ぶことがあるそうです。自らの研究成果や読みを試すためだそうです。それが成功することもあれば失敗することもあるようです。失敗を恐れないからこそ、嗅覚が鋭くなったり失敗への対処方法が自然に身についたりして、高い勝率を誇ることができているのではないかと思います。

同様に、本当はいくつになっても失敗を恐れないことは大切なことではないかと思います。ただし、場合によっては取り返しがつく範囲内に収めるなどの工夫は必要かもしれません。失敗を恐れないからこそ、世間の常識を超えた成果を挙げることができるようになるのではないかと思います。

動画サイトのスロー再生機能

今日は地域医療を紹介する10分余りの動画を拝見しました。私には語りが早口すぎて脳をかなり速めに回転させる必要があったので、およそ3分ごとに休憩が必要でした。それでも見終わってからしばらくクラクラしてました。また、今日は卓上型「流しそうめん器」の動画を見る機会もありました。しかし回転速度を3分の1くらいにしてもらわないと、何が起きているのか認識できそうにありませんでした。

私のように脳の回転速度が人様より遅い人のために、動画の再生速度を遅くできる機能があると便利そうです。そこで利用したことのある動画サイトについて調べてみたところ、YouTube, Vimeo, Dailymotion では「設定」のメニューで再生速度を速くしたり遅くしたりできることがわかりました。(他の動画サイトについては調べてません…)

早速使い心地を試してみました。私の場合、あまり遅くしすぎると単語を聞いたそばから忘れて、頭の中で文章として組み立てられなくなるので、一番聞き取りやすそうな速度を選ぶ必要がありました。幸い、音声の周波数はできるだけ元のままになるように工夫されているようでした。(ただし、音声が少し歪むような印象を受けました)

いくつか試してみたところ、再生速度を遅くすると確かに聞き取りやすくなりました。しかし、スロー再生の音声を聞くよりも字幕を読む方が楽でした。文字起こしを読む方がもっと楽でした。というわけで、どうやら再生速度調整は最後の手段という位置付けになりそうです。