法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

非難する人と犀の角

(1)非難する人

悲惨な事件が起きると、事件について、容疑者について、詳しく報道されます。それを見て、会ったこともない容疑者を非難する人がいるように思います。

しかし私はどうしても非難する気になれません。それどころか、一歩間違えていれば私も容疑者のような言動を取ったかもしれないと思ってしまいます。仮に容疑者と同じような人生を歩んだとしたら、同じような事件を起こしていたかもしれません。たくさんの人に支えていただいて、今日まで紙一重でなんとか回避してきただけだと思います。明日は我が身、いつもそんな風に思ってしまいます。だからとても非難する気になれません。

世の中への影響力が大きな人たちについても同様に、非難する気になれません。意見や見解の相違について発言することはあっても(=批判することはあっても)、非難する気にはなれません。

私自身が罪悪深重・煩悩熾盛の極悪人なので、人様の過ちが大きければ大きいほど、自分のことのような気がして、いたたまれなくなります…


(2)悪い人

しかし世間では、「悪い人」を非難するのは当たり前のことのようです。

さらに一歩進んで、「悪い人」を非難しない人も「悪い人」に分類されて、非難の対象となるようです。

そのため、世間の基準に従っても、私は「悪い人」です。誰も非難する気がない私は、「かなり悪い人」に分類されると思います。

したがって、私は自他共に認める根っからの極悪人です。悪業深き極悪人です。


(3)犀の角

極悪人は、極悪人として生きるしかありません。

世間の常識を物ともせず、それどころか世間の常識に逆らって、悪評を気にせず孤独に生きていくしかありません。

「犀の角のようにただ独り歩め」(インドサイの角は1本しかないそうです)

「自らを拠り所とし、法を拠り所として、他を拠り所とせずに生きよ」

「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」

…最近読んだ言葉より…