法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

表面的な理解が同調圧力を生むのかもしれない

(1)怒り

さて、これまでの経験から、怒りの感情が湧き上がってくるのは、(1)相手の中に自分の嫌いなところを見たとき、(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき、の2つのパターンがあるように思います。

※もう少しわかりやすい表現に変えたいと思っていますが…、適切な表現が見つからないので、もっと理解を深めてからになると思います。中でも「思い込み(妄想世界)」の意図は分かりにくいのではないかと思います。申し訳ありません。


(2)お勉強

さて、その「思い込み(妄想世界)」のひとつに、表面的なお勉強があるのではないかと思います。教科書等で勉強して表面的な知識はあるものの、現場経験がないため、言葉遊びレベルの浅い理解にとどまっている知識のことです。

一所懸命に勉強したので自分ではよく知っているつもりになってますが、詳しい人の前ではおとなしくしているしかないことはわかっています。そこで、自分より理解できてなさそうな人の前で、よく知っているかのように振る舞いたくなることが、たまにはあるのではないかと思います。

特に、自己否定の心がとても強い人は、自分より理解できてなさそうな人の前で威張り散らしたくなるようです。そればかりか、自分の知識や理解と異なる発言をする人に対して怒鳴り散らしたくなるようです。前述の「(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」に該当するからではないかと思います。初心者同士なので、本来なら冷静に議論したり、詳しい人に質問したりして何が正しいかを見極めるべき局面だと思います。しかし彼らは本心では自信がないからこそ、怒鳴り散らして自分の意見を通そうとするのではないかと思います。

そうやって、格下相手に威張り散らしたり怒り散らしたりすることで、自己肯定感を高めている人たちが時々いるように思います。悲しいかな日本では、激しい怒りの感情を爆発させるほど、門外漢には優秀に見えたり、熱心に指導しているように見えたりすることがあるようです。


(3)熟練者を潰す

一般に、教科書等に書かれている知識は初心者向けです。その分野で生きていくために必要な知識のごく一部です。教科書等で大変な思いをして勉強したつもりになっていても、その分野で生きている人から見たら、ようやく入口に立ったにすぎません。

ところが、自己否定の心がとても強い人の中には、教科書等でちょっと勉強しただけで「この分野のことならなんでも知っている」と思い込みたくなる人がいるようです。その結果、教科書等を遥かに超えた知識や技能を持つ人たちが、大変な出鱈目の大馬鹿者に見えて仕方なくなることがあるようです。(例:キャリアがちょっと勉強しただけで、ノンキャリアを見下したがる)

そのため、実際には経験豊かな人たちから懇切丁寧に教えてもらっている貴重な機会であるにも関わらず、彼らには不勉強な人たちが出鱈目なことばかり言っているように聞こえて、怒りの感情が抑えられなくなることがあるようです。前述の「(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」に該当するからではないかと思います。

そこで上司に掛け合って一人一人潰していく、という手法が取られることがあるようです。日本では、激しい怒りの感情を爆発させると、主張が説得力を持つ傾向があるように思います。そのため、怒り散らすほど、主張の審議に関わりなく、彼らの意見が通りやすくなるのではないかと思います。


(4)常識

ひょっとしたら、世間の常識でも同様なことが起きているかもしれません。

世間の常識はあまりに膨大なので、ひとつひとつの歴史や根拠など、詳細を理解しながら勉強することは実質的に不可能ではないかと思います。現実的には、あやふやな理解と曖昧な記憶で精一杯なことが多いのではないかと思います。しかしそれでも、自分では膨大な常識を一所懸命に勉強したと思っている人は多いかもしれません。

理解が表面的なので、自分が知っている常識と異なる言動を取る人がいると、怒りの感情が湧き上がってきやいのではないかと思います。前述の「(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」に該当するからです。

世間の多くの人たちの常識の理解が曖昧だからこそ、常識とはちょっと異なる言動を取るだけで、あちこちから怒りの感情が飛んでくるのではないかと思います。

もしかしたら、これが同調圧力の正体かもしれません。見方を変えると、現代社会では情報量が多すぎて、ひとつひとつの情報を吟味して理解する余裕がないことが、同調圧力の原因であると考えることもできるように思います。


(5)料理

中国の都市部で働いている日本人のエッセイに、こんなお話が載ってました。(随分前に読んだ記事なので、曖昧な記憶をもとにあらすじだけ書きます)

ある日、中国人の友人夫婦に会食に呼ばれたそうです。食事の途中で、別の中国人夫婦が○○を指して、「私たちはこれより美味しく作れる」と発言したそうです。日本であれば険悪な雲行きになりそうな発言です。ところが中国では失礼な発言には当たらないようです。主催の友人夫婦は興味を示して「今度食べさせて!」と言ったそうです。日を改めて、その中国人夫婦宅での会食に呼ばれたそうです。その席で○○を食べた友人夫婦は、「確かに美味しい!」と感動して、作り方を教えてもらったそうです。

このエッセイを読んだ当時は、日本と中国の文化の違いかな…と思ってました。しかしひょっとしたら、料理への姿勢の違いかもしれません。

多くの日本人の感覚では、料理はたくさんある家事のひとつ、という位置付けなのかもしれません。一所懸命に勉強して丹精込めて料理するものの、日々の家事が多すぎて、料理への理解がどこか表面的にならざるをえないのかもしれません。そのため、万一料理に不満が出ると、前述の「(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」に該当してしまって、怒りの感情が湧き出てくることが多いのではないかと思います。

それに対して上述の中国人の感覚では、料理は特別な位置付けにあるのかもしれません。そのため、日々特別な研鑽を重ねているのかもしれません。そこで、もっと美味しい料理方法があると聞くと、大きな興味が湧いてくるのかもしれません。この機会を逃してなるものか!と思って、食べに行くのかもしれません。料理について深く理解しているため、前述の「(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」に該当しようがないのかもしれません。

もしかしたら日本と中国の違いではなく、その会食に集まった人たちと料理との関係性が特別だったのかもしれません。あるいは、日本人と中国人では、料理との関係性が大きく異なるのかもしれません。

このような事例は、料理だけでなく、様々な分野で見られるのではないかと思います。すなわち、ある分野と関係性を深めれば深めるほど、威張ったり怒ったりすることが少なくなり、真摯に向き合って、たくさんの人たちと切磋琢磨できるようになるのではないかと思います。


(6)同調圧力を減らす

以上より、人々が同調圧力から解放されて自由に生きていけるようになるための対策には、次の2つがあるのではないかと思います。

ひとつめは、現代社会で生きていくために必要な情報量を大きく減らすことです。世の中をシンプルにして、重要な原理原則をいくつ押さえておくだけで生きていける社会に変えていく必要があるのではないかと思います。

ふたつめは、やっつけ仕事的なお勉強をやめて、どの分野も真摯に深く学ぶことです。

思い出してみると、日本の学校教育では、この2つと正反対の事が行われていたように思います。もしかしたら、フリースクールで行われているような教育方法が広まると、世間の同調圧力が随分と弱まるかもしれません。ひょっとしたら、、日本の教育形態が、日本の国民性を作っているのかもしれません。