法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

「困った人」は「困っている人」

(1)ババ抜き

子どもの頃、ババ抜きでよく遊びました。ルールが簡単なので、子どもから大人まで一緒に遊べるからです。ジョーカーのおかげで、小さな子どもはハラハラドキドキを全身で表現して、大きな子どもは懸命にポーカーフェイスを装うので、大人も自然に笑顔になって、とても盛り上がるゲームでした。

しかし、ジジ抜きはほとんど遊んだことがありません。盛り上がりに欠けるからではないかと思います。

「悪役」が「見える化」されているところが、ババ抜きの面白さの秘密かもしれません。


(2)物語

アンデルセン童話『裸の王様』では、二人組の仕立て屋がイカサマ師であることは、物語の最初に明かされてました。また、『水戸黄門』や『スター・ウォーズ』など、シリーズ化される映画やドラマは、登場人物の善悪がはっきりしていることが多いように思います。

「善悪正邪」が「見える化」されているところが、息の長い人気の秘密かもしれません。


(3)現実

しかしながら、現実の世の中では「善悪正邪」は「見える化」されていません。

そこで思い思いに「善悪正邪」の判断をしているのではないかと思います。ヒーローっぽく振る舞う人、悪役っぽく振る舞う人、エキストラっぽく振る舞う人。世間の評判の良い人、悪い人。意見が同じ人、違う人。などなど、判断基準は人それぞれではないかと思います。

そうやって「善悪正邪」をなんとか判定して、世の中を分かりやすく面白くして、暮らしているのではないかと思います。


(4)困った人

大空小学校初代校長・木村泰子さんの著書を読むと、「困った子」は「困っている子」という言葉をよく見かけます。

周りの大人から「困った子やなぁ」と思われてしまう子どもほど、実際には子どもの手には負えないような大きな大きな困りごとを抱えていて、精神的にとても苦しんでいるようです。それを上手に言葉にできなくて、周りの大人には理解できない言動を取ってしまうようです。そんな子どもの様子を見て「困った子やなぁ」と敬遠するか、「大きな困りごとを抱えているんだな」と判断して寄り添うか。人によって接し方はそれぞれだと思います。

同様に大人でも、「困った人」は「困っている人」でもあるように思います。自分の手には負えない大きな大きな苦しみを心の中に抱えているのかもしれません。苦しさのあまり必死にもがいて、周囲の理解を超えた言動を取っているのかもしれません。その様子を見て「困った人やなぁ」と思って敬遠するか、「大きな困りごとを抱えているんだな」と判断して寄り添うか。接し方は人それぞれではないかと思います。


(5)抜苦与楽

そんな風に考えると「善悪正邪」ってなんだろうと思えてきます。

他人を突き放したり、近寄ったりするための言い訳にすぎないのかもしれません。自己中心的なモノサシなのかもしれません。

はたして、困り果てて苦しんで誤動作を起こしている人を叩き潰すことが正義なのでしょうか。

もちろん、不用意に近寄って返り討ちにあって、逆に叩き潰されてしまうことを推奨したい訳ではありません。どうしたら苦しみをなくすことができるか、どうすれば抜苦与楽できるか。その過程で、時には痛い目にあってもらわないといけないこともあるかもしれません。ただし、憎しみからではなく、苦しみのもとを心から消してもらうために。きちんと寄り添った上で。どうすればできるんだろう…


(6)問い

言うまでもなく、私はそんなことができるような立派な人ではありません。むしろ世間的には「困った人」に分類されてしまう人です。だからこそ「どうすればできるんだろう…」という問いは持ち続けたいと思っています。

木村泰子さんの著書には、そのヒントが書かれているような気がしています。

生きる舞台と生きた長さが異なるだけで、子どもも大人も根幹は同じではないかと思います。結果的に腕力・権力・財力・悪知恵などが異なってますが、それは枝葉ではないかと思います。困っている子への接し方は、困っている人への接し方と基本的には同じかもしれません。

繰り返し読むと、たくさんのヒントをいただけるのではないかと期待しています。