法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

インド発祥の考え方と公案

(1)インド発祥の考え方

インド発祥の考え方(仏教を含めたインド哲学とその末裔)は、私にはとても興味深いです。

かつては仏教が漢字文化圏に馴染んだ形で日本に入ってきました。そして日本でも独自の発展を遂げました。近現代はインド哲学が欧米文化圏に馴染んだ形で日本に入ってきているように思います。例えば、ヨガは全国各地で大人気のようですし、様々なグルの翻訳書は多数出版されていますし、アカデミズムの仏教研究は欧米の視点に倣っているように思います。

考えてみると、かつては天竺まで陸路か海路で命懸けで旅して学ぶしかありませんでしたが、近代になるとインドへの航路・空路が整備されて往来が楽になり、さらに現代ではインドまで行かなくても先達・書籍・ネット等を通して気軽に学べるようになりました。

優れた導師との邂逅はいつの時代にも稀有なことだと思うので、私のように悪業深き者にはおそらくご縁はありません。いずれにしても自習しかないのであれば、自宅に居ながら文字を通して勉強できる現代は、本当にありがたい時代だと思います。


(2)公案

私は、人生は神様から与えられた公案だと思っています。

私自身の言動も、人様の言動も、摩訶不思議なことで満ちあふれています。それを解き明かすにあたって、インド発祥の考え方には重要なヒントが秘められているように思います。残念ながら私には複雑なことは理解できませんが、門外漢にも公開されているシンプルな情報の中にすら、大きなヒントが詰まっているように思います。

古代から伝わる貴重な叡智の宝庫を、私なりに掘り下げていきたいと思っています。


(3)焼け石に水

そのような訳で、インド発祥の考え方を道徳・倫理という視点からは見ていません。

世の中には素晴らしい方々がたくさんいらっしゃいます。仮に世の中の人たちを善人・悪人に分類すれば、ほとんどの方々が善人に分類されるのではないかと思います。善人であれば、道徳・倫理・箴言などを少し勉強するだけで、さらに立派な人になることができると思います。そういう人たちのための有益な情報は、世の中にあふれているのではないかと思います。

一方、悪人に分類された極一部の人たちにとってみると、道徳・倫理・箴言などを付け焼き刃的に勉強しても、焼け石に水にしかなりません。根本的な対策が必要ですが、参考になる情報は限られています。

ご存知のように、私は罪悪深重・煩悩熾盛の極悪人です。世の中の道徳・倫理・箴言が前提としている人格にはまったくもって手が届きません。お蔭様で、これまでに積み重ねてきたたくさんの悪業が次々と弾けて、数々の貴重な体験を重ねることができました。そこで、生まれてこのかたの様々な体験を教科書に、インド発祥の考え方を虎の巻に、神様から与えられた公案を読み解いていきたいと思っています。


(4)心の観察

インド発祥の考え方のありがたいところは、心の奥底を見ようとするところです。

例えば、インドの伝統的な五戒にアヒンサー(非暴力)とサティヤ(真実語)があります。善人であれば、最初からこの戒を守ることを目標にすることができると思います。

しかし極悪人である私は、いきなり守ることはできないので、まずは自分の心の観察から入ります。私自身の心の表面から心の奥底までじっくり眺めて、もちろん言動も眺めて、この戒で求められていることと現在の私がどのくらい駆け離れているかを認識することから始めます。その過程から学ぶことはとても多いです。神様から与えられた公案を読み解くためのヒントが詰まっています。


(5)茨は瘡蓋

心の奥底に分け入って行くと、あちこちに茨の道があります。心の中のイバラは、心の大きな傷を隠すためのカサブタのようなものだと思います。茨の道をさらに分け入って広場に出ると、言葉にはできないくらい大きな発見が待っています。イバラの大きな痛みは、アヒンサーやサティヤなどの戒を守ることを阻害している要因のひとつとなっていることも分かってきます。

心の中の大きな傷は、たくさんの経験を通して心の奥底に根を張って、簡単には取り除けないようにも思えます。しかし、傷を癒すことができれば根は枯れてしまうのではないかとも思います。今の私には、心の大きな傷をひとつひとつ見つけては癒していくことはとても大切なことのように思います。

心の傷を癒すためのベストな方法論は人それぞれだと思います。今の私にはここに書いた方法論があっているように思います。(私自身の内面が変わるにつれて、その時々のベストな方法論に乗り換えていくことと思います)


(6)何でもあり

ところで、日本では常識に従って行動することが前提となっているように思います。そのため、常識の想定外の事態には適切に対応できないことがあるのではないかと思います。そこで例えば、嵐が通り過ぎるのを待ったり、力尽くで追い出したり、行動を変えてもらうべく話し合ったり、立場の弱い人にシワ寄せして切り抜けたり、村八分にしたり、などなどの手段が取られるのではないかと思います。

それに対して、インド発祥の考え方は何でもありが前提となっているのではないかと思います(私の勝手な想像かもしれません)。そのため、日本の常識の想定外の事態について考察するには、インド発祥の考え方はもってこいではないかと思っています。きっと、適切な視点を教えてくれることと思います。

また、常識を身に付けることは喩えるなら「足し算」のようなものだと思いますが、インドの伝統的な五戒を守ることは基本的には「引き算」のようなものだと思います。思考能力も記憶能力も限られている私には、「足し算」よりも「引き算」の方が向いているように思います。したがって、おそらく一生、非常識なままだと思います…