法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

心に大きな傷を持つ人は、その反動で被った着ぐるみに操られているのかもしれない

(1)ソリティア

思い出してみると、昨年夏に思考能力のリハビリのためにソリティア(正式名クロンダイク)に取り組み始めた頃は、数十回に一回しか成功できませんでした。おそらく、カード運が非常によいときに偶然が手伝って成功していただけだと思います。

その頃は BGM として周杰倫(台湾の著名な歌手)のメドレーを聴いてました。顕在意識ではソリティアを解こうとしているものの、「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」で思うように思考できず、顕在意識の隅っこでは周杰倫を聴くとはなしに聴いていて…

そんな風に、ソリティアに取り組んでいるような、単にボーッとしているだけのような、まったく中途半端な状況でいると、不思議と昔々のことがありありと思い出されてきました。すっかり忘れていたつもりになっていたことが、視覚的にも聴覚的にも感覚的にもはっきりくっきり思い出されてきました。

やがて、思考能力のリハビリのためにソリティアに取り組んでいるのか、昔々の思い出に浸るためにソリティアを立ち上げているのか、わからなくなってしまいました。

思い出されるのはいつも、ある特定種類の状況に関連した思い出でした。時期も場所も全然違うことが連想ゲームのように次々と思い出されてきました。そうやってソリティアを通して記憶の貯蔵庫から取り出されたことが、私にとっての「人生は神様から与えられた公案」の中でも重要な課題となっています。

それまでは、発症前の記憶はほとんど忘れていたつもりになっていたのですが、実は思い出すきっかけさえ掴めれば、連想ゲームのように次々と、しかもありありと、思い出せることがわかりました。

昨夜、そして今夜と、久しぶりにソリティアを解きながら周杰倫のメドレーを聴いています。それを通して感じたことはあまりに膨大で、文章に書き起こすことは簡単なことではありません。かと言ってこのまま放っておくと、やがてすっかり忘れてしまうかもしれません。そこで今夜は、とりあえずその一部だけでも文章に落としてみようと思います。うまくまとめられなかったので、わかりにくいかと思います。誠に申し訳ありません…


(2)心の大きな傷

ほとんどの人は、生まれてこのかたの経験を通して、心の傷をいくつも抱えているのではないかと思います。小さな傷ばかりという人もいれば、途轍もなく大きな傷を抱えている人もいることと思います。

小さな傷であれば、簡単にフタで隠したり、自力で癒したりできるかもしれません。しかし、途方もなく大きな傷を抱えてしまった場合、フタで隠そうにも隠しきれず、フタの傍から噴火を繰り返してしまうのではないかと思います。時にはフタごと吹き飛ばされることもあるかもしれません。

隠しきれないくらい大きな心の傷を負った人は、苦しさを紛らわせるために、理想の自分像を心の中に描くことが多いのではないかと思います。例えば、大きな心の傷によって「自分は猛烈にヒドイ」と思ってしまった人は、逆に「自分は猛烈にスゴイ」と思い込もうとするのではないかと思います。同様に、「自分は猛烈に馬鹿だ」→「自分は猛烈に優秀だ」や、「自分は猛烈に嫌われている」→「自分は猛烈に慕われている」などと、劣等感の正反対の理想像を思い描くのではないかと思います。そうやって、一人一人の理想像を心の中に描いて、その理想像を大きく膨らませて、理想の自分を演じるのではないかと思います。

しかし残念ながら、思い込みのハリボテなので、最初は中身がありません。理想と現実のギャップを埋める必要があります。そのために適切な努力ができるとよいのですが、心の傷が大きすぎると、現実を冷静に見つめることができなくて、上滑りの努力しかできないようです。そのため、思い込みのハリボテの自分のまま、威勢のよさだけで乗り切ろうとするのではないかと思います。


(3)怒りの感情

私のこれまでの経験から、怒りの感情が湧き上がってくるのは、(1)相手の中に自分の嫌いなところを見たとき、(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき、の2つのパターンがあるように思います。

威勢のよさだけで乗り切ろうとしている人たちにとっては、心の大きな傷が無意識のうちに刺激を受けたときに発生する怒りは(1)によるものではないかと思います。また、思い込みのハリボテが破壊されそうになったときの怒りは(2)によるものではないかと思います。心の傷が大きければ大きいほど、そして思い込みのハリボテが現実から駆け離れていればいるほど、激しい怒りが湧き上がってくるのではないかと思います。

日本では激しい怒りの感情を爆発させると、主張が説得力を持つ傾向があるように思います。そのため、怒りを激しく爆発させればさせるほど、彼らの主張が説得力を持ってしまうのではないかと思います。その結果、彼らのハリボテな主張が通ってしまうのではないかと思います。


(4)着ぐるみ

少し表現を変えると、心に大きな傷を負ってしまった人は、(1)心が折れて苦しんでいる「内側の自分」と、(2)着ぐるみを着て威張り散らしている「外側の自分」の、二重構造になっているのではないかと思います。

意識の焦点は、普段は着ぐるみである「外側の自分」にあるのではないかと思います。しかし不安が強くなると、ふと「内側の自分」に向くことがあるのではないかと思います。

彼らは、自分を威勢よく見せるために、自分の理想像に即したストーリーを紡ぎ出しているのではないかと思います。また、人の話を聞いて「これは使える」と思ったときは、都合よく書き換えて、いかにも「これこそが本当の事実だ」という風に言いふらして回るのではないかと思います。

その際、「外側の自分」は、そのストーリーを心底真実と信じているようです。

それなのに、そのストーリーを決しておおっぴらには言わないで、手間暇かけて自分の話を信じてくれる人だけに限定して言いふらして回っているように思います。しかも、自分のストーリーを転覆させる可能性のある人が四面楚歌になるような工夫がなされているように思います。例えば、そのような人が想像を絶する極悪人・大馬鹿であるかのような話を追加するようです。そうやってストーリーに絶妙な味付けをしたり、流通範囲を絶妙にコントロールしたりしているのは、実は「内側の自分」ではないかな…と思います。

すなわち、着ぐるみの「外側の自分」はストーリーは真実だと思っている一方で、「内側の自分」はストーリーは作り話だと知っている。「外側の自分」はストーリーに沿って行動する一方で、「内側の自分」は裏で上手に糸を引いている。意識の焦点は普段は「外側の自分」にあるので、彼ら自身も心の二重構造に気付かない。そんな風になっているのではないかと思います。


(5)二重構造

この二重構造が、彼らの成功の秘密ではないかと思います。「外側の自分」がアクターで、「内側の自分」がディレクターのような関係にあるのではないかと思います。

すなわち、アクターである「外側の自分」は、自分のストーリーを威張ったり怒ったりしながら宣伝して信頼を得ることで、万能感あふれる我が世の春を謳歌するのではないかと思います。例えば、成果や評判を独占したり、失敗を責任転嫁したり、他人のものを横取りしたり、自分に従順な人だけを取り立てたり、逆らう人を追い出したり…

一方、ディレクターである「内側の自分」は、喩えるなら悪魔に魂を売ったような状態にあって、悪辣な計画を完璧に立てることができるのではないかと思います。だからこそ、たくさんの人生を踏み潰しながら、自分の幸せを追求できるのではないかと思います。もしかしたら白昼夢を見ているような状態にあって、倫理観がすっかり欠落して、自分の都合しか考えられなくなっているのかもしれません。その結果、心の大きな傷を刺激される心配がなくなり、ホッとしているのではないかと思います。

もっとも、彼らが心の底から幸せを感じているのか、それとも成功すらもハリボテにすぎず、実際には苦しみが増幅されているだけなのかはわかりませんが…


(6)幸せへの近道

そんな彼らも時には、心の大きな傷への執拗な刺激に耐えきれなくなったり、思い込みのハリボテの虚構が白日の下に晒されて信頼を一気に失ったりして、精神的に崩壊してしまうこともあるかもしれません。そのときは一時的に、途轍もない苦しみを味わうことになると思います。

しかし長い目で見れば、幸せへの近道を歩みはじめたと言えるのではないかと思います。その時が早ければ早いほど、周りの人たちの被害は小さくて済み、本人の幸せも早くやってくるのではないかと思います。


(7)マインドセットと煩悩

さらに見方を変えると、アクターである「外側の自分」はマインドセットに操られた状態にあり、ディレクターである「内側の自分」は煩悩に操られた状態にある、と捉えることもできるように思います。

この二重構造に気付くためには、もしかしたら瞑想を取り入れると効果があるかもしれません。

瞑想を通して、意識の焦点を「外側の自分」でも「内側の自分」でもないところ(例:身体や物体)に置く時間を定期的に作ることで、瞑想時の自分と「外側の自分」の違いに気付くことができるのではないかと思います。さらには「内側の自分」に気付くこともできるかもしれません。その結果、二重構造の存在に気付くことができれば、二重構造が解消されるきっかけとなるのではないかと思います。

効果は人それぞれかもしませんが、有効の対策のひとつとなりうるのではないかと思います。