法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

〔草稿1〕はじめに

禅問答と公案

私たち俗人は、話が噛み合っていない会話のことを「禅問答」になぞらえることがあります。

しかし、本来の禅問答は禅僧同士の対話のことで、聞く人が聞けばお互いの意図が手に取るようにわかるそうです。喩えるなら、学者同士の議論は私のような素人が聞いてもチンプンカンプンですが、同じ分野の学者であれば十分に理解したり議論に参加したりできることと似ているのではないかと思います。

禅宗の一派では、門外漢にはチンプンカンプンに聞こえてしまう禅問答を師匠が出題して、弟子がその意図を明確に見抜いて全身全霊で回答することを修行の一環としているそうです。その際に出題される禅問答を「公案」と呼ぶそうです。公案に取り組むことを通して、心境をグングンと深めていくのだそうです。

人生は神様からの公案

この世で生きていると、すばらしい体験、平凡な体験、とんでもない体験など、様々な体験をします。私のような愚か者には、なぜそのようなことが起きるのかまったく理解できません…

しかしもしかしたら、見る人が見れば(例えばお釈迦さまから見れば)、背景となる理由や仕組みが手に取るように分かるのかもしれません。そのような境地は無智無明の私には望むべくもありませんが、それでも生まれてこの方の様々な体験を「公案」とみなして全力で参究すれば、背景の一端がほんのりと分かるようになるかもしれません。そしてそれは、人生観・人間観・世界観、その他あらゆる視点をすっかり変えてしまうかもしれません。

そんな期待を比喩的に「人生は神様からの公案」という言葉で表現しています。そして、手に負えそうなところから少しずつ取り組んでいます。

(注1)実際に神様がいらっしゃるかどうかは、ここでは問題ではありません。仮に神様がいらっしゃると仮定すると、公案の出題者と回答者の関係を模することができます。そして回答者が工夫を凝らして出題者の意図を参究するという形にできます。そこで、「人生は神様からの公案」と表現することで、初心の目的を思い出しやすいようにしています。

(注2)また、禅宗の用語を借りているので、本来であれば「仏様からの公案」とすべきかもしれません。しかし、語呂を優先して「神様からの公案」としています。(例えば七五調に組み込みやすくなります)

愚鈍に愚直に

とは言え、愚鈍な私にできるのは単純なことだけです。

そこで、生まれてこの方の体験の中から、その時々のテーマに沿ってできるだけたくさんの場面を思い出して、その中から共通項を見つけたり適切な分類方法を探したりする作業を繰り返してきました。個々のテーマに対してこの作業を何度も何度も繰り返すことで、仮説を厳選したり、仮説としての精度を上げたりしてきました。進め方は単純ですが、時間はかかります。

それを愚直に繰り返すことで仮説を少しずつ組み立てていきました。仮説がある程度組み上がってくると、その延長線上に新たな仮説を推測することができるようになります。その中で検証に耐えたものを採用してきました。仮説の全体構造がぼんやりと見えるようになってくると、欠落している部分についても仮説を推測したり検証したりできるようになります。そのおかげで、進展がさらにはやくなりました。

端的に言えば、「見渡して、見つけて、確かめる。」という原則と、「考えてはいけない。考えたら間違える。」という経験則に従って、少しずつ仮説を組み上げてきました。しかし、まだまだ入口の入口あたりでウロウロしている状態です(笑)

現状報告

さて、気が早いかもしれませんが、仮説の現状を文章にまとめる作業を始めました。

ようやく序章が形になったばかりの段階で、掘り下げ方も説明も構成も未熟というよりほかありませんが、よろしければご笑覧ください(笑)