法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

思い込みと読書

(1)思い込み

私の心の中にはたくさんの思い込み、たくさんの当たり前があります。

「○○は□□のはずだ」「××は△△なものだ」などなど。

当たり前すぎて、疑問に思ったことも、存在を意識したこともない思い込みが、生まれてこのかた、私の心の中に無数に積み上げられてきたことと思います。そしてこれからも積み上げていくことと思います。(できることなら消してしまいたいのですが…)

そういった思い込みを通して、日々の体験・対話・見聞を解釈しています。そして、たくさんの誤解を生み出していることと思います。


(2)読書

特に読書では誤解が顕著に現れやすいのではないかと思います。

会ったこともない人の思いや考えを、文章だけで読み取ろうとするからです。

「きっとこんな風に感じたんだろう」「きっとあんなことを言いたかったんだろう」などなど。

深く理解するために、同じ本を何度も繰り返して読むことを勧める人もいます。1回目よりも2回目、さらに3回目と、理解がどんどん深まって、誤解もどんどん減っていくからです。根気のある人にはとてもよい方法だと思います。

しかし私は飽きっぽいので、同じ本を繰り返して読むと圧倒的に集中力が落ちてしまいます。そこで、興味を持った本があれば、同じ人の本をあれこれ読んだり、同じテーマの本をあれこれ読むようにしています。同じテーマについて視点を変えて読むことができれば、理解が少しずつ深まって、誤解も少しずつ減っていくと思うからです。


(3)群盲象を評す

「群盲象を評す」という言葉があります。Wikipedia によると、「数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話」とのことです。

私の読書方法を喩えると、できるだけたくさんの盲人から話を聞けば、象のことが少しは分かるのではないか、という考え方です。場合によっては、人によって話が大きく違っていて、とんでもなく混乱してしまうこともあるかもしれません。それでも、さらにたくさんの盲人の話を聞いているうちに、だんだんと共通項が見えてきたり、耳を傾けるべき人が見えてきたりするのではないかと思います。


(4)伝え方

先日読んだアナスタシア・シリーズは耳を傾けるべき本だと思ったので、繰り返し読みたいと思っています。今はインドで覚者と言われている人の本を読んでいるのですが、アナスタシア・シリーズで得た理解がとても役に立っています。インドの覚者は抽象的に語りますが、アナスタシアは行為で語ります。伝え方が全然違うので、どちらからもいろんな学びをいただけます。

何年か前に、王仁三郎の霊界物語シリーズ(81巻83冊)のうちの第1巻〜第72巻を2回読みました。この本は小説ですが、所々で抽象的な解説が書かれています。抽象的な文章は、分かったつもりになることは簡単ですが、本当に理解するのはとても難しいです。しかし小説の部分から、著者が伝えたいことを情緒で受け取ることができます。何を受け取ったのか自分では十分には把握できないまま、いろんなことを受け取っています。そして抽象的な文章を読むことで、書かれている内容への理解が進みます。このシリーズからも、アヒンサー(非暴力)をはじめ、たくさんのことを学ぶことができました。しかし、アナスタシア・シリーズ同様、何を受け取ったのかを文章化することはとても難しいです。と言う訳で、いつの日か3回目の読書に挑戦したいと思っています。

仏典もおそらく同じで、抽象的な文章だけでは伝わらないかもしれないので、比喩として物語が多用されているのではないかと思います。中には「お釈迦様が伝えたかったことを間違いなく伝えよう」とばかりに、後世の人たちが作った物語もたくさん含まれているかもしれません。わかりやすい物語もイマイチな物語もあるかもしれません。先人の工夫を、後世の人たちが上手に受け取っていく必要があるのではないかと思います。

そんなこんなで、私は同じ本を何度も読むよりも、いろんな本をあれこれ読む方が理解が進みやすいタイプのようです。ちゃんと受けとれているか、はたまたアサッテな受け取り方をしているかは、私自身にはわかりませんが…