法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

吉田太郎(著)「文明は農業で動く」

吉田太郎(著)「文明は農業で動く」を読みました。

世界各地の伝統農法のうち、現代まで生き残っているものが紹介されています。著者は日本ではあまり知られていない農法を中心に紹介したかったとのことで、中南米と南アジアの伝統農法の紹介に力が注がれています。以下は読後の感想です(内容紹介ではありません)。


伝統農法と聞くと、牧歌的で理想化された農村風景を思い浮かべる人もいれば、胡散臭い迷信の塊と感じる人もいるかと思います。仮に古今東西の伝統農法を調査することができたなら、その土地の風土に適した素晴らしい部分もあれば、由来の怪しい逆効果な部分もあるのではないかと思います。しかし、現代人の知見を持ってしても、その切り分けは簡単ではなさそうです。現代人の農法理解はまだまだ浅いからです。

伝統農法は、その土地の伝統的な暮らしと強く結びついていることが多いようです。そのため、伝統農法を「生産性」という観点だけから議論してもあまり意味がないようです。食糧生産は伝統農法の持つ機能のひとつにすぎないからです。

その土地に暮らす人々にとっては、食料を含めて暮らしに必要な様々なものを作り、動物や虫から人間の暮らしを守り、どんな天災が来ても生き延びるための伝統的な叡智であると同時に、日々の当たり前な暮らしという感覚ではないかと思います。その一部分を外部の人間が無理矢理切り取って「伝統農法」と呼んでいるだけではないかと思います。

そのため、農法を変えると伝統的な暮らしが続けられなくなり、農村社会の崩壊につながってしまうのではないかと思います。地域の風土は、大自然の営みと人間の営みが共生することで作られると思います。共生関係が壊れると、大自然の姿は大きく変わり、人間も暮らしを変えざるを得なくなってしまうのではないかと思います。それは近代以降、世界各地で起きていることではないかと思います。


工業的な農法と伝統的な農法の一番の大きな違いは、暮らしにおける位置付けではないかと思います。

工業的な農法は、暮らしとは完全に切り離されているように思います。実験農場で高収量を上げた農法を、各地の田畑で再現することに主眼が置かれているのではないかと思います。そのために必要なタネも肥料も農薬も機械も買い揃えて、指定通りに作業して、上手に再現できたら高収量で大儲け。しかし再現に失敗して低収量で終わったら、大赤字。天候のせいにしても、土壌のせいにしても、生態系のせいにしても、ましてやメーカーのせいにしても、何も解決しない。暮らしの一部というより、事業の世界(投資と収益の世界)ではないかと思います。商品を作っている感覚ではないかと思います。だからこそ、金融と相性がよく、世界銀行も推奨するのではないかと思います。そして大儲けする人と破産する人が出てくるのではないかと思います。

一方、伝統的な農法は暮らしの一部のように思います。老舗企業のように、人々の暮らしや大自然を大切にします。短期的な儲けよりも、長期的な安定性を重視します。大自然を征服するのではなく、大自然の一員として生きようとします。この世の存在だけでなく、神様や精霊も大切にします。そのため資本主義的な世界観とは相性が悪いのではないかと思います。

アニメ『未来少年コナン』で喩えるなら、インダストリアとハイハーバーの違いかもしれません。


ひとつだけ印象に残った事例を紹介します。

インド北部のラージャスターン州はタール砂漠を抱えて雨が少なく、旱魃が発生しやすい地域だそうです。その対策として、州の東北部では「ジョハド(Johad)」と呼ばれるダムが伝統的な方法で作られているそうです。雨季には豪流を堰き止めて土壌侵食を防ぐとともに、渇水期には水分の豊富な農地にもなり、一年を通してダム付近からの伏流水が近隣の農地や井戸に水分を与える。外部資材を必要とせず、村人自身の手で構築・維持できる。その地域ならではのダムです。

一方、大規模な灌漑用ダムはたくさんの資金、資材、人材、工期を必要とします。巨大なダムはその重量で伏流水を止めてしまうので、別途水路の構築・維持も必要となります。何百年という時間の流れの中では、ダムも水路も何度も作り直さなくてはいけないかもしれません。はたしてそのようなことが可能でしょうか…

この事例のように、世界各地でその地域の風土にあった工夫がなされているそうです。そのまま導入することはできないと思いますが、世界中を見渡すと何がしかのヒントを与えてくれる事例が見つかるのではないかと思います。