法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

物質文明と宝クジ

(1)理想と現実

自己否定の心の強い人たちの中には、その反動で下記の特徴を持つ人たちが見受けられるように思います。

「現状の自分(たち)を否定して高邁な理想を掲げる。理想が高すぎるがゆえに、理想と駆け離れた現実を直視できない。現実を直視できないので、現実が生み出す大きな歪みに効果的な対策が打てない。そこで対症療法として、立場の弱い人たちに無理矢理シワ寄せする。」

この特徴は、個人だけでなく、国家や企業にも広く見られるように思います。また、業界団体(いわゆる「○○ムラ」)にも見られるように思います。


(2)物質文明

これはひょっとしたら、特定の人物・企業・国家・団体等だけに見られる特徴ではなく、現代の物質文明全体に見られる特徴かもしれません。

現代社会は物質文明から多大な恩恵を受けています。しかし資源とエネルギーの大量消費と大量廃棄を前提とした社会です。大都市のインフラと暮らしを支えているのは、世界各地の鉱山であり、低賃金労働であり、公害であり、人災であり、自然破壊であり…

上流階級の暮らしだけに注目すると、物質的にも経済的にも大変恵まれた理想的な世界に見えるかもしれません。しかし、上流層の生活圏から一歩離れると、街は寂れていて、人々は疲れています。さらに離れると、悪条件下で低賃金労働している人たちがいたり、大自然が破壊されていたり、生き物が単なるモノとして扱われていたりなど、目を背けたくなる現状があります。

現代の物質文明は、一部の人たちがおいしい思いをするために、たくさんの人たちを苦しめ、大自然を痛めつけることで成り立っているのではないかと思います。

(いつだったか秩父武甲山の山容を見てショックを受けて以来、ビルを見る目も、物質文明を見る目も、すっかり変わってしまいました)


(3)椅子取りゲームと宝クジ

冷静に考えると、物質文明の恩恵を受けることができるのは一部の人たちにすぎないのは明らかだと思います。

それでもみんなして物質文明を極めようとするのは、ひと握りの選ばれし人になりたいという気持ちが強いからかもしれませんし、現代社会においてはそれ以外の選択肢が見つからないからかもしれません。椅子取りゲームに喩えるなら、残された椅子がわずかしかない状況で、壮絶な椅子取り合戦に参加している人もいれば、諦めて傍観している人もいるような状況かもしれません。(見るに見かねて椅子を譲る人は、ほとんど皆無ではないかと思います)

あるいは、物質文明は宝クジに喩えることができるかもしれません。ほんの一握りの人だけが大富豪となり、一部の人は多少プラスとなり、残りのほとんどの人は赤字です。赤字は積もり積もって胴元の取り分になります。私たちは胴元の甘い言葉に誘われて、踊らされているだけかもしれません。

はたして現代の物質文明から抜け出すことはできるでしょうか…


(4)この世は鏡

以下はファンタジーです。

私は、この世は私自身の鏡だと思っています。この世が大きな問題を抱えているとしたら、私自身の中にも同じような大きな問題が存在しているということだと思います。心理的に誤動作して大変な事態を引き起こした人がいるとしたら、私の中にも同じような誤動作の要因があるということだと思います。

様々な記事を読む度にそんな風に思います。そんな視点で世の中を見ています。そのため、特定の誰かを責める気持ちにはなれず、それよりもその人が心に抱えている苦しみに思いを馳せてしまいます。やっぱり変な人ですね…