法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

川原は不思議な世界とつながっているのかも

所用のついでに大きな川沿いを散歩しました。堤防の内側に降りると、広い広い空には雲が浮かび、お日様が輝き、鳥が時折飛んでいます。大地には草木が繁り、川が流れています。そして草がそよぐ音や川のせせらぎが聞こえてきます。遠くから自動車や電車の音も聞こえてきます。川原が広いところでは、ちょっとした自然散策ができます。そんな環境でボーッとしていると、思いもしなかったことが浮かんできます。

地球上で生き物が暮らしいけるところは、地表近くと海面近くが中心です。そこでは、天体の正確な運行のお蔭で、四季があり、一日があり、潮の満ち引きがあり、日月星が巡っています。地球上には様々な気候があり、各地の天候は様々な表情を見せてくれます。お日様のお蔭で植物が育ち、そのお蔭で動物も育ちます。多彩な生き物が暮らしているお蔭で、地球が地球らしくなっています。この世のすべての大本は、お日様であり、大地であり、お月様なんだなと思います。

人体は何十兆個もの細胞と無数の微生物で成り立っています。細胞も微生物も新陳代謝を繰り返しています。そして食べ物や飲み物を取り込んでは、消化して、排出しています。人体は固定したものではなく、体内はどんどん入れ替わっています。あらゆる生き物は固定したものではなく、内部がどんどん入れ替わっています。どんどん入れ替わるからこそ、健康に生きていけます。絶え間なく入れ替わることが、生き物の本質なのかもしれません。生まれて、子孫を残し、死んでいく。それがこの世のいのちなのかもしれません。


生き物の表面には皮膚があります。ある瞬間だけを取ると、確かに皮膚が生き物の内外の境界となっています。しかし時間をかけて観察すると、皮膚の内側はどんどん入れ替わっています。外側もどんどん入れ替わっています。

すなわち、身の回りにある有機物は、未来の『私』の一部かもしれませんし、過去の『私』の一部かもしれません。身の回りにある空気も同様です。はたして、有機物や空気が皮膚の内外を行き来する瞬間に、『私』になったり、『私』でなくなったりするのでしょうか。それとも、『私』は皮膚面よりもずっとずっと大きな存在なのでしょうか。

仮に『私』が皮膚面よりずっと大きな存在だとしたら、どのくらいの大きさなのでしょう。手足が届く範囲でしょうか、それとも地球サイズでしょうか、あるいは宇宙サイズでしょうか…

エネルギーの往来を考えると、お日様も『私』の一部だと思います。否、お日様こそが『私』の大本かもしれません。お日様だけでなく、現代科学では知られていないエネルギーをあちらこちらからいただいているかもしれません。そう考えると、『私』の大きさはユニバースを超えて、マルチバース・サイズかもしれません。仏教でいう「三千世界」のサイズかもしれません。本当の『私』は途轍もなく大きな大きな存在なのかもしれません。


不思議なもので、川原を歩いているうちに、そんな気持ちになりました。

目の前にある草木も川も、大地も大空もお日様も、みんなみんな『私』なのです。目の前の草花が風に揺れているのを見て『私』が揺れていると思い、川が流れているのを見て聞いて『私』が流れていると思い、遠くから自動車の音が響いているのを聞いて『私』が走っているのだと思ひ。みんな『私』なんだなぁ… 『私』の中で本当にいろんなことが起きているんだなぁ…

川原は不思議な世界とつながっているのかもしれません。