法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

青い鳥

仏教が言うようにすべての人が仏性(ぶっしょう)を持つならば、あるいは神道が言うようにすべての人が神様の分霊(わけみたま)を持つならば、わざわざあちこちに探しに行かなくても、本当はいまここに、自分の中に、神仏がいらっしゃると思います。

ところが多くの人には、自分の中の神仏が見えません。それはきっと「神仏とは○○なものだ」と言う強い強い思い込み、しかも残念ながら見当違いの思い込みを持っているからではないかと思います。心の曇りを取っ払って純粋な気持ちになってはじめて、自分の中の神仏が見えるようになり、また他人の中の神仏も見えるようになるのではないかと思います。

チルチルとミチルが幸せの青い鳥を探しに行く有名な童話「青い鳥」を子どもの頃に読みました。内容はすっかり忘れてしまいましたが、様々な国を大冒険した末に帰宅してみると、実は自分の家の中に青い鳥がいた、と言うお話だったと思います。作者の意図は存じ上げませんが、私の勝手解釈では、大冒険を通して「幸せとは○○なものだ」という思い込みをすっかり削ぎ落として純粋な気持ちになることができたので、自分の家の中に元々いた幸せの青い鳥が見えるようになったのではないかと思っています。

同じように、人生という修行を通して心を汚したり清らかにしたりを何度も何度も繰り返すうちに、いつの日か心の曇りがすっかり晴れて純粋な気持ちになり、自他の中にいらっしゃる神仏が見えるようになるのではないかと思います。

おそらくですが、自他の中の神仏が見えるようになると、すべての人は、そしてすべての存在は、いまありのままで神仏の化身として見えるのではないかと思います。善に見えたり悪に見えたりするのは人間の浅知恵によるもので、本当はありとあらゆる存在や事象は神仏の現れなんだと思います。逆に本心からそういう目で見るようになると、そしてそういう心で接するようになると、ありとあらゆる存在や事象が神仏の御心の現れへと変わっていくことと思います。

言葉を変えると、それぞれの人が観る世界は、それぞれの人の心の表れだと思います。それぞれの人の心が変わると世界が変わっていくと思います。他人を責める心があると、責めるべき人や事象が次々と立ち現れてくることと思います。他人を責める心がなくなると、責めるべき人や事象はやがて消え去ると思います。純粋なるアヒンサーの心になると、純粋なる平和が訪れると思います。かなり変な考え方ですね(笑)