法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

真理の山師

真理というものがあるとしたら、それはひとつだと思います。ただあまりにも深淵で人間の理解をはるかに超えていると思います。聖者といえども人間としてこの世に現れている限りは全貌をとらえきることができず、さらにそれを人々に伝えるとなると困難を極めるのではないかと思います。

おそらくこれまで数多の聖者が、ご自身のとらえた真理を人々に伝えようとされてきたことと思います。しかしその万分の一をも伝えることができず、さらに何十年、何百年、何千年の時を経て伝えられるうちに大きく変遷して、原型をほとんどとどめていない伝承が数多あるのではないかと思います。真理に基づかない情報も多分に紛れ込んでいるかもしれません。そのようにして伝えられてきたものが、現代社会において宗教と呼ばれているのではないかと思います。

ですから、、大変失礼なことで申し訳ありませんが、、多くの宗教は『真理の残骸』状態ではないかと思っております。いま、その残骸から真理を掘り起こすことが求められているのではないかと思います。すなわち『真理の鉱夫』になること、あるいはまさしく『真理の山師』になることが現代人に求められているのではないかと思います。

そのためには様々な宗教や古代哲学を眺めて耳目を肥やすことが必要ではないかと思います。そうやって磨いた耳目を用いて、真理の欠片(かけら)を拾い集めていく必要があるのではないかと思います。ちょうど川で砂金を集めるように、根気よく鉱脈を探し歩いて、根気よくザルを振って、真理の欠片を少しずつ拾い集めていく必要があるのではないかと思います。ある程度集まってくると少しずつ輪郭が見えてくることと思います。そうなると真理の欠片探しが加速するのではないかと思います。

そうやって掘り出した真理は文字通り値千金だと思います。お金には変えられない無限の価値を持っていると思います。尊い真理を手にすれば、真理に基づかないことにはほとんど興味がなくなることと思います。

念のための補足ですが、私は宗教を否定する気持ちはまったくありません。篤信家となって真剣に学んで、真摯に実践して、ようやくはじめて見えてくることはたくさんあると思うからです。ひとつの宗教を篤く信仰して得た心境はとても貴重だと思います。私のように何をやっても中途半端な人間から見ると、篤信家はとても心の磨けた優れた人が多いように思います。