法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

人生は神様からいただいた公案

(1)思いは具現化

私は、心にあることは具現化していくと思っています。そうやって人生が形作られていくと思っています。

心の大部分は潜在意識ですから、潜在意識にあることが具現化している、と言い換えた方がよいかもしれません。そのため、顕在意識で希望していることとは随分と違う方向に進んでしまうことが多々あるのではないかと思います。

例えば、いくら顕在意識で「○○が実現しますように」と願っていても、潜在意識で「できるわけがない」と思っていたり「本当は怖いので実現しない方がよい」と思っていたりすると、無意識のうちに実現を阻止する言動を取って、本当に実現しなくなるのではないかと思います。

逆に、顕在意識で思いもしなかったことでも、潜在意識で「○○は実現する!」と思っていると、無意識のうちに適切な言動を繰り返したり、千載一遇の機会を上手に捉えたりして、実現に漕ぎ着ける可能性が高くなるのではないかと思います。

いわゆる「引き寄せの法則」については私はわかりませんが、必死で手を伸ばせば届く範囲の望みであれば、潜在意識にあることは具現化する可能性が高いのではないかと思っています。


(2)心の傷

おそらく多くの人は、潜在意識のどこかに心の傷を抱えているのではないかと思います。

私も例外ではなく、潜在意識のどこかに大きな大きな心の傷があるようです。すっかり鳴りを潜めている時期もあれば、何かをきっかけにグワングワンと鳴り響く時期もあります。何がきっかけになるのか、自分ではわかりません。一旦鳴り響き始めると、とんでもない誤動作を繰り返したり、底無しの恐怖心に落ち込んだりします。本人もつらいですが、誤動作に巻き込まれた周りの人も相当大変なのではないかと思います。

もしかしたら、鳴りを潜めているように見える時期でも、実際には心の中で重低音が響き渡っているかもしれません。思い返してみると、3〜4歳頃には「世界中から嫌われている」「どんなにやさしく見える人でもいつ怒り出すかわからない」と思ってました。おそらく、生まれるよりずっと前の記憶によるものだと思います。俗に「三つ子の魂百まで」と申します。私の日常的な言動にも、私の人生にも、無意識のうちに大きな影響を与えているのではないかと思います。生まれてこのかた、その思いが具現化し続けているのではないかとも思います。

もしも大きな大きな心の傷の正体を見ることができたなら、今となっては「化物の正体見たり枯れ尾花」ではないかと思います。しかし「枯れ尾花(=枯れススキ)」であることを見極める日が来るまでは、巨大な「化け物」であり続けると思います。


(3)公案

一休さんのとんち話は世代を超えた人気があるようです。モデルとなった一休宗純は、室町時代臨済宗の禅僧でした。臨済宗では師から与えられた「公案(こうあん)」を参究することを通して悟りにいたることを特徴としているそうです。

禅僧どうしの会話は「禅問答」とも言われて門外漢にはチンプンカンプンですが、一定の心境に達した人には手に取るように意図が理解できるようです。 (喩えるなら、囲碁や将棋のプロの感想戦を初級者が聞いてもチンプンカンプンですが、トッププロなら感想戦に参加できるようなものかもしれません)


(4)参究

おそらくこれはファンタジーに属するお話だと思いますが…

私は人生は神様から与えられた公案ではないかと思っています。なんでこんなことがおきたのかわからない、なんでこんなことになったのかわからない。そんな体験を必死に参究して解き明かしていくことを通して、少しずつ気付きを得ていくのではないかと思っています。

例えば、心に大きな傷を負っているがゆえに体験したことも、後遺症が残っているがゆえに体験していることも、すべて公案だと思っています。(すなわち、心の傷も後遺症も公案のタネだと思ってます)

与えられた公案を世間の常識を使って解こうとすると、袋小路に迷い込んでしまいます。例えば「わたしが悪い」「あのひとが悪い」では解いたことにならないと思います。

そこで私はアヒンサー(非暴力)を重要な原則として利用しています。怒りの心が少しでも沸くようなら、あるいは誰かを責めるような気持ちが少しでも残るようなら、その回答は間違っていると考えます。どこにも怒りの起きない見方ができるようになったとき、ようやく正しい可能性が出てきます。その段階にたどり着いたときには、さらなる原則が必要になるかもしれません。

与えられた公案は、一生をかけても解けないかもしれません。何度生まれ変わっても解けないかもしれません。しかし、一生をかけて一歩でも進捗があれば、それは大きな成果だと思っています。

これは、私のヘンテコリンな人生観のうちのひとつです(笑)