法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

中田考,橋爪大三郎(共著)「クルアーンを読む」

中田考,橋爪大三郎(共著)「クルアーンを読む」を読みました。スンナ派イスラム法学者である中田考さんとルター派クリスチャンである橋爪大三郎さんによるクルアーンコーラン)をテーマとした対談本です。中田考さんの著書はイスラム教徒の視点でイスラムについて語られているので、いつも興味深く読んでいます。この本はクリスチャンの視点からの質問に答える形で綴られているので、他の本とは一味違う視点からイスラム教について語られているように思いました。


クルアーン第1章「開端章(アル・ファーティハ)」の朗誦です。美しいですね。


以下、直接的な感想ではありませんが…

イスラム教やキリスト教のように地域や民族の垣根を超えて信仰を集めている宗教は、大まかに見れば教義や儀礼を広く共有していると思いますが、細かくみると地域や民族によって差異があるのではないかと思います。そのような差異が生まれる原因のひとつは、地域や民族によって「ものごとの理解構造や視点」が異なっているからではないかと思います。

何百年、何千年の昔には、現代よりもはるかに多様な宗教が世界各地に存在していたのではないかと思います。それらに代わって世界宗教が広まった理由は、人により地域により異なっていたのではないかと思います。体制内で生きていくためであったり、反体制の意思表示であったり、心の平安や真理を求めてであったり…

しかし改宗して信奉する教義や日々の儀礼を変えたとしても、心の奥底に染み込んだ地域性・民族性は簡単には消すことができなかったのではないかと思います。信仰する宗教が変わっても、そのまま受け継がれたのではないかと思います。言い換えると、改宗によって変わったのは顕在意識のレベルだけで、潜在意識のレベルではほとんど何も変わらなかったのではないかと思います。

「宗教宗派」と「ものごとの理解構造や視点」の関係は、「言語」と「思想」の関係に似ているかもしれません。地域ごとの言語がどんどん滅びているように、地域ごとの宗教宗派もどんどん滅びているのではないかと思います。しかし古来よりの思想が時代を超えて伝わっているように、「ものごとの理解構造や視点」も世代を超えて伝わっているのではないかと思います。

私は「宗教宗派」よりも「ものごとの理解構造や視点」の方に興味があります。