法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

Calling

英語の「calling」には、本来の意味である「呼んでいる」「呼ぶこと」に加えて、鳴き声・叫び声という意味もあるそうです。しかしキリスト教ではもっと重要な意味を持つ言葉のようです。手元の辞書には次のように書かれてました。

  1. 神の御召し、召集。
  2. 天職、生業、職業。
  3. 使命感、強い衝動。

この場合の「calling」の主語はキリスト教の神様のようです。神様から人間に対して呼び掛けをしているという状況を指す言葉でもあり、神様から呼び掛けられた内容(使命)を指す言葉でもあり、神様から呼び掛けられる喜びを表す言葉でもあるようです。

仏教で例えると如来や菩薩からの呼び掛け、神道で例えると大神様からの呼び掛けにあたるのではないかと思います。「汝、○○し給え」という声が心の中に響いているのかもしれません。その事実、その内容、その感動を指す言葉なのかもしれません。

このように重要な意味を持つ「calling」という言葉のニュアンスがこれまでなかなかわからないでいましたが、今日初めて少し分かったような気がしました。


神様というと、一般には人間から遠いところに存在しているように言われていると思います。空の上だったり、神界だったり…。一方では「内なる神」という言葉で表されるように、人間の心の奥底の奥底の奥底に尊い存在がいらっしゃるという考え方もあります。果たして、遥か彼方にいらっしゃるのか、遥か奥底にいらっしゃるのか…

私は遥か彼方と遥か奥底は繋がっていると思っています。神様を求めて遥か彼方に意識を飛ばしてたどり着く先と、神様を求めて遥か奥底に意識を沈めてたどり着く先は、究極的にはまったく同じところだと思います。そればかりか、神仏と呼ぶべき尊い存在がいらっしゃるとしたら、あらゆる時間に、あらゆる場所に、あまねくいらっしゃると思います。たったひとつの尊い存在が、時空の制約に縛られることなく、あまねく存在してらっしゃると思います。ですから、お遍路さんに限らず「同行二人」の世界、すなわち尊い存在は常に私たち一人一人とともにあると思います。

そのようにあまねくいらっしゃる尊い存在からの声を受け取っている状態が「calling」ではないかと思います。それはとても幸せに満ちた状態でもあり、同時にまったくの当たり前の何気ない状態でもあると思います。晴れ舞台に立つ瞬間であっても、日常のどうしようもない瞬間であっても、人生における最悪の瞬間であっても、どんな瞬間でも、どんな場所でも、どんな人であっても、時空を超えてあまねく存在している尊い存在からの声を常に受け取っているのだと思います。人間からみると時空は現実ですが、神仏から見ると時空は幻だと思うからです。

もしかしたら、尊い存在からの声が常に響き渡っている状態を表現するために古来から伝わっている言葉が、「言霊の幸ふ国」なのかもしれません。