法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

善悪はありやなしや

ダライラマ14世は、法話をされるときに「世俗の話」と「真理の話」を意識的に別々に扱っておられます。本来は日常生活も真理も繋がっていて一つだと思うのですが、法話の内容をきちんと伝えるためには、敢えて別々のものとして話をした方が言いたいことが伝わりやすくなることが多いからではないかと思います。(英語ではおそらく secular 対 sacred の対比にあたると思います)

そこで以下では、「世俗の善悪」と「いのちの善悪」を分けて考えてみたく思います。

世俗の世界(日常生活の世界)で善悪を決めるのは、最終的には人間です。時代により、地域により、文化により、善悪の判断基準や判定方法には違いがありますが、どんな手順で決めたのであれ、採用の可否を最終的に判断するのは人間です。倫理・道徳や法律と呼ばれているものがそれだと思います。

それに対して真理の世界(聖なる世界)では、善悪はないと思います。ただ敢えて言えば、意識が「いのち」に対して真っ直ぐに向かっている状態が『善』で、意識が「いのち」から大きく離れている状態が『悪』だと思います。ここでの「いのち」は、すべてのいのちは繋がっていてひとつだ、という意味での「ひとついのち」のことです。「ひとついのち」の中には、とても尊い存在から、傍迷惑と思われかねない存在まで、あらゆる存在が含まれています。その「ひとついのち」としっかり繋がっている状態が敢えて言えば『善』で、その状態にあればすべてと調和して「苦=思い通りにならないこと」はなくなると思います。逆に「ひとついのち」と十分には繋がってない状態が敢えて言えば『悪』で、その状態ではすべてと不調な関係にあるので「苦=思い通りにならないこと」だらけになると思います。


「いのちの輝き」とは、「ひとついのち」とどのくらいしっかりと繋がっているか、ではないかと思います。「ひとついのち」からいただくエネルギーは輝いて見える(心に映る)のではないかと思います。「ひとついのち」としっかり繋がっていればいるほど、エネルギーがたくさん流れて、いのちがキラキラと輝いて見えるのではないかと思います。いのちが眩しいばかりに輝いている状態が、敢えて言えば『善』だと思います。

「ひとついのち」から見ると時間も空間も共同幻想だと思います。ちょうど映画を見ているようなものではないかと思います。あらゆる時代、あらゆる場所、あらゆる物事が別々に存在しているようでいて、実は映画館の椅子に座ってポップコーンを頬張りながら映画を見ているのと同じで、すべてはただひとつのスクリーンに映っているにすぎない、という状態にあるのではないかと思います。そのため個々の人間から見ると、「ひとついのち」はあらゆる時代、あらゆる場所、あらゆる物事にあまねく存在しているように見えると思います。

その状態を世俗的な言葉で表現すると、この世のありとあらゆるところに尊い存在がいらっしゃる、と見えると思います。しかし真理の言葉で表現すると、人間は映画館の椅子にじっと座って映画の世界にどっぷりと浸っているだけで、実際には尊い存在の中に人間がいる、否、尊い存在と人間はひとつである、と言えるのではないかと思います。そのことに身口意揃って気付いて、「ひとついのち」とひとつになって生きている状態が、敢えて言えば『善』ではないかと思います。