法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

理解力に頼らない生き方

(1)理解のしかた

人の話を聞いて理解する際の方法論には、いくつかあるように思います。少なくとも3種類はあって、場合によって使い分けているのではないかと思います。ただし、人それぞれ得意な方法があるように思います。

  1. 相手の話を少し聞いて、自分の知識や体験と照らし合わせて状況を推測して、それ以降はその推測結果を前提とする聞き方。すなわち、手持ちの引き出しを信頼する聞き方です。

  2. 相手の話を聞きながら、想像を膨らませて「本当はこうに違いない、ああに違いない」と話の内容を書き換えていく聞き方。すなわち、自分の想像力を信頼する聞き方です。

  3. 相手の話を聞きながら、全体の構造から細部までを推測する聞き方。すなわち、自分の理解力を信頼する聞き方です。

(他にも、相手の気持ちを大切に受け取ろうとされる方々がいらっしゃるように思いますが、経験が足りないのでここでは割愛します…)

得意な聞き方が似ている人どうしでは、お互いの言いたいことがすぐにわかって、話が早いのではないかと思います。逆に、得意な聞き方が異なる人どうしでは、お互いに何を言いたいのかよくわからなくて、誤解が生じやすいのではないかと思います。


(2)3種類

いつもながら、私が人間の言動パターンを分類すると3種類になることが多いです。例えば、先日 8/25(水) の3分類〔従順〕〔威圧〕〔探求〕を流用すると、上述の理解の仕方は次のように対応づけられるように思います。

  1. 〔従順〕手持ちの引き出しを信頼する聞き方。世間の秩序や常識に従うことを重視しているのかもしれません。

  2. 〔威圧〕自分の想像力を信頼する聞き方。自分の都合や思い込みを重視しているのかもしれません。

  3. 〔探求〕自分の理解力を信頼する聞き方。自分の人間観・世界観・宇宙観の構築・修正を重視しているのかもしれません。

そして今回の分類でも、愛あふれる人の視点が抜けています…


(3)ひとつぶ

以下は、ファンタジーに属するお話だと思います。

私はインド発祥の考え方に大きな影響を受けています(仏教であったりインド哲学であったり…)。そのため、「一神即多神・多神即一神」ならぬ「一人即多人・多人即一人」(←造語です)という考え方に惹かれています(ワンネスも同じような考え方かもしれません)。

例えば、人体は手足胴頭などからなり、それは筋骨・臓器・皮膚などに分かれ、さらに細かく見ると数十兆個もの細胞からなっています。ひとつひとつの細胞に優劣はありませんが、役割は大きく異なります。例えば、ある細胞は足の裏にあり、またある細胞は頭のてっぺんにあり、という具合です。そうやって役割分担することで、全体でひとつの人体を形作り、しかるべく機能しています。

人間社会も同様に、地球上の何十億人もの人たちが役割分担することで、ひとつの大きな社会ができあがっています。しかし、何十億人もの人々の一人一人の役割や連携具合を詳細に理解することは不可能です。そこで、人間社会にある種の秩序を想定して、その秩序を守って暮らすことが重要である、という考え方があるようです。その考え方に則って、認識できる範囲での秩序を大切にする生き方が、前述の〔従順〕タイプの人たちかもしれません。(秩序における位置付けを最重視する)

また、あらゆる生命は尊いので、人類も尊く、一人一人も尊い、という考え方もあると思います。その考え方に則って、認識できる範囲における一人一人の尊さを大切にする生き方が、前述の〔威圧〕タイプの人たちかもしれません。自分一人だけが尊いと思う人もいれば、自分の仲間だけが尊いと思う人もいるように思います。(自分のこと、自分たちのことしか考えられない)

中には、この世のことをすべて理解した上で行動したいと思う人もいると思います。しかし一人の人間に理解できる総容量は限られているので、ある分野について深く極めようとすればするほど、それ以外のことがわからなくなってしまうのではないかと思います。そうやって自分たちで認識・理解できる範囲で探求を繰り返しているのが〔探求〕タイプの人ではないかと思います。(わかる範囲のことしか考えられない)

他のタイプの方もいらっしゃるかもしれません。

一人一人がすべてを詳細に理解できると一番よいのでしょうが、それは人間の能力を遥かに超えた願望だと思います。そこで認識できる範囲で頑張っている姿が、前述の〔従順〕〔威圧〕〔探求〕の人たちの姿なのかもしれません。人間の認識能力を遥かに超えた方向に頑張ろうとしているので、方向性が裏目に出て、望まない結果を呼び寄せてしまうことが多いのかもしれません。


(4)人為か自然か

人体は何十兆個もの細胞からできているそうです。ひとつひとつの細胞が自然に振る舞っていれば、摩訶不思議なことに、細胞全体が人体として絶妙な働きを示します。細胞ひとつひとつは、自分が人体の一部であることを知らないかもしれません。ましてや、足の裏なのか、頭のてっぺんなのかなんて知りようがないと思います。それでも絶妙に連携して働いています。

同様に、何千年も昔の人間社会でも、一人一人が自然に暮らしていれば、大自然の一部として絶妙な働きを示していたのかもしれません。しかし人間社会が人為的になるにつれて、一人一人も人為的に振る舞わないと、人間社会として機能しなくなってしまったのかもしれません。人間社会が人為的で不自然であるがゆえに、人類はたくさんの誤認識とたくさんの苦しみを抱えてしまったのかもしれません。そして、みんなしてもがき苦しんでいるのかもしれません。

このような現状を鑑みて、だからこそ人為で解決しようという考え方と、だからこそ自然に還ろうという考え方があるように思います。


(5)心の奥深く

しかし、人間のアタマで考えようとする限り、いつかは人間の認識能力や思考能力の限界にぶち当たるのではないかと思います。もしかしたら既に限界を越えて、袋小路に迷い込んでいるかもしれません。

私はインド発祥の考え方に大きな影響を受けているからでしょうか、最近はアタマに頼らない方向に進みたいと思っています。言い換えると、煩悩にもマインドセットにも頼らない方向です。

具体的な方向性は今の私にはわかりませんが、もしかしたら人間の奥深くに眠る叡智を呼び覚ますような生き方かもしれません。 (ひょっとしたら、SF (Science Fiction) ならぬ CF (Conscious Fiction) のような方向性かもしれません)

おそらくは少数派だと思いますし、私の洞察力も経験値も明らかに低いので、気長にゆっくり取り組みたいと思います。