法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

言葉と文化

世界中にはたくさんの人々がいて、様々な言葉や文化があって、様々な社会情勢や自然環境のもとで暮らしています。そして言葉は、その土地の人々や文化や社会や自然環境にあわせて、常に変化し続けていると思います。

例えば、各地の方言はその土地の暮らしや考え方に根ざした言葉だと思いますので、日々の暮らしの中で一番『しっくり』くるのはその土地の方言だと思います。また、現代の「日本語」は現代日本で意思疎通するために必要不可欠な表現力を持つ言葉だと思いますので、現代日本で活躍するために一番『便利』なのは日本語だと思います。同様に、世界中の言葉はそれぞれの地域の暮らし(文化・社会・自然等)と不可分にして不可欠な関係にあると思います。

このように言葉は文化と切っても切れない関係にあるため、ある言語環境で生まれ育った人が別の言語で自分の気持ちや考えを表現しようとしたときに、表現力不足を感じることがあるかもしれません。そのような感覚を持つのはおそらく仕方のないことで、母語以外を使う際にはおそらく誰もが感じることではないかと思います。

例えば西洋哲学は西洋の文化に根ざしているので、日本語に翻訳した時点で情報が大きく欠落してしまいます。西洋文化に根ざした語彙がバッサリ捨てられて、日本で明治期に作られた熟語に置き換えられてしまうからです(それに加えて、熟語で用いられている漢字の意味に引っ張られて、本来の意味とは異なるニュアンスで理解されるかもしれません)。そのため日本語だけで暮らしていると、西洋哲学や西洋文化の深淵さを理解することが難しくなっているように思います(本当は原書で読めるとよいのですが、残念ながら万人にできることではありません…)。これは西洋哲学・西洋文化に限らず、あらゆる地域の哲学・文化について言えることだと思います。

また、語彙が豊富であれば表現力が豊かかというと、そうでもないように思います。例えば仏教は日本では千年以上の歴史を持っているので、仏教用語はとても充実していますし、日本語の日常語には仏教由来の言葉が豊富に含まれています。ところが、それらの用語は千年以上に渡る歴史の中で手垢がつきすぎて、本来の意味とは大きく異なる意味を持ってしまっているものが少なくありません。そのため、日本語で仏教の法話を聞くと、却って誤解してしまうことが少なくないように思います。現代の日本で仏教について語る際は、既存の仏教用語を極力使わない方がよいかもしれないくらいです。実際、世界的に有名な仏教僧(例:ダライ・ラマ、ティク・ナット・ハン)の著書の日本語訳では、仏教用語を極力避けて平易な言葉が用いられているように思います(仏教用語が用いられるのは経典解説など限定的です)。

言葉は必要に応じて変わっていくものなので、逆に必要な方向に変えていくこともできると思います。例えば英語は、世界中の様々な人々に使われることで語彙や表現力がどんどん豊かになり、ますます使いやすい言葉になっていっているように思います。日本語も使いやすいようにどんどん変わっていく(変えていくと)とよいなと思います。