法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

地球はオーケストラ、人間は異色の新入団員

今日は、とある山里に鎮座する神社の周辺を散策してきました。散策路から見える丘がとてもすてきで、一目見たときからファンになってしまったので、少し遠いですがこれまでにも何度か行ってます。周辺の自然環境もとてもすばらしいところです。


(1)対話

思い出してみると、随分前は丘に向かってあれこれ質問してたように思います。どんな質問をしたのかほとんど覚えてませんが、ひとつだけ印象深く覚えている質問があります。

「私の病気は治りますか?」と聞いたところ、「治ります」と答えが返って来ました。当時は発症から間もない頃で、会話能力はおろか、読み書き能力ですらヨチヨチ状態だったので、とても信じられませんでした。そこで改めて「本当に治りますか?」と聞いたところ、「元通りに治ります」と答えが返って来ました。

私の中には、まったく信じられないという気持ちと、この答えを信じてみたいという気持ちがありました。そこでとりあえず、治るという可能性を捨てないことにしました。今から思うと、そのお蔭で単調で大変なリハビリを今日までコツコツと続けて来られたのかもしれません。そして今があるのかもしれません。


(2)流入

しかし最近は、ただただぼーっと眺めてます。質問はせず、もちろんお願いもせず…

ただそれだけで、何かが伝わってくるような気がするからです。言葉が聞こえてくる訳ではありません。仏教の「拈華微笑(ねんげみしょう)」ではないですが、言葉ではない何かの形で、言葉では伝えられない大切な何かが、顕在意識を通すことなく、潜在意識に直接伝わってきているような気がするからです。

丘をぼーっと眺めたあとは、潜在意識から顕在意識へと何やらふつふつと浮かび上がってきます。それを感じながら散策を続けます。


(3)ガイア

こんな風に書くと、いわゆる自然崇拝に近いように聞こえるかもしれません。

確かに、静的に見ると丘を崇拝しているように見えるかもしれません。あるいは大自然を崇拝しているように見えるかもしれません。しかし動的に見ると、いのちの躍動やエネルギーの躍動を感じているような気がしています。

丘の周辺には、木々が茂り、草も生え、苔もむし、虫が飛び、鳥は鳴き、けものも歩き回り…。ひとつひとつのいのちが懸命に生きてます。自分の身の回りのことしか知らず、もっと生きやすい場所があるかもしれないとか、もっとよい生き方があるかもしれないとか、そんなことを気にすることもなく、ただ今いる場所で与えられた姿で懸命に生きてます。

それはとても尊いことだと思います。途轍もなく尊いことだと思います。そのお蔭で、どこに行っても草木が茂り、虫や鳥や獣がいて、大自然が大なり小なり営まれています。そのお蔭で、地球が地球でいることができています。たくさんのいのちが生きることができています。

では、ひとつひとつの草木や虫や鳥や獣は地球のために犠牲になって生きているのかというと、そんなことはないと思います。きっと、すべてのいのちは繋がっていて、全体でひとつなんだと思います。ひとつのいのちからたくさんのいのちが分かれていって、ミクロに見るとそれぞれがまったく別のいのちを生きているようでいて、マクロで見ると全体でひとつのいのちを生きている。ミクロに見ると食いつ食われつしているようでいて、マクロで見るとぴったりと協力し合って生きている。ミクロに見ると生老病死があるように見えて、マクロで見ると大きないのちが生きている。地球は(ガイアは)そんな風になっているのではないかと思います。

草木も虫も鳥も獣もみんな、いのちの大元とピッタリ結びついて生きているのではないかと思います。だから無為自然尊い生き方をしているのではないかと思います。


(4)大合奏

ところが人間だけが、いのちの大元との結びつきが緩いのではないかと思います。あれこれと妄想をたくましくして、いのちが落ち着くべき場所から大なり小なりズレてしまって、他のいのちから見ると、はた迷惑極まりない存在になってしまってる… そういう観点からは人間は困った存在だと思います。

しかしきっと、人間には人間の役割があるからこそのズレではないかと思います。地球がもう一歩前進するために、敢えて「異物」として振る舞う人間を作った。「異物」である人間が、従来からある地球と調和できるところまで成長すれば、新たな地球になることができる。そんな期待を込めて人間が作られたのではないかと思います。

だから人間は、地球にとって「異物」であると同時に、調和する存在でなくてはならないと思います。音楽で喩えると、それは「G」を「G7」にしたり「Gm」にしたりすることかもしれません。あるいは交響曲に合唱を加えるようなものかもしれません。その過程で音を間違えたり、テンポを間違えたり、強弱を間違えたりしているのが、今の人間の姿かもしれません。ですから、もうちょっと真面目に練習すれば、地球と人間の関係は大きく変わるのではないかと思います。そして地球の一員として素晴らしい演奏を奏でるようになると思います。

いのちの大元は、その日が来るのを楽しみにしていることと思います。


(5)散策

そんなことを感じながら散策を続けました。

散策しながらあたりを見回すと、山の斜面には木々が茂り、あちこちに草は生え、石には苔がむし、地面には枝や葉や花弁が落ちていて、おそらく糞尿もあちこちに落ちていて、風はそよぎ、水は流れ… そんな当たり前のことすら、本当はとても尊いことなんだなと思いました。本当に尊いことは当たり前の中に、当たり前のようにあるんだなと思いました。

自然界では尊いことは無為自然の当たり前のことなのかもしれません。しかしそれは、人間にはとっても難しいことです。だからこその人間なのかもしれません。その難しさを乗り越えられれば、すばらしい未来が待っているかもしれません。

そんなことを思いながら山里を後にしました。

好き嫌いは当たり前

食べ物に好き嫌いがあるように、自分の中に好きなところ、嫌いなところがあるのは当たり前だと思います。自分の中に嫌いなところがあるからと言って、それを直す必要もなければ、無理して好きになる必要もないと思います。

単純に「私の中の○○なところが嫌い」と認めて、そのことについて気にしなくなると(自分を責めなくなると)、不思議なもので、いつの間にか嫌いではなくなっていると思います。「嫌いなのはよくないことだ」と思うから、「嫌い」という感情にエネルギーが注がれてしまうのではないかと思います。「好きでも嫌いでもいいよ」と思うと、「嫌い」という感情にエネルギーが注ぎ込まれなくなって、やがて消えてしまうのではないかと思います。

物事には両面性があると思います。ある方向から見れば短所でも、別の方向から見れば長所かもしれません。だから、いま嫌いだからと言って直す必要はまったくないと思います。むしろ、直してはいけないと思います。ありのままが一番だと思います。

時が経てば、嫌いだったところがいつの間にか好きになっているかもしれませんし、その逆もあるかもしれません。ですから、好きでも嫌いでも、あまり気にしなくてよいと思います。

そんな風に思っているので、今は随分と気楽に生きています。

大切にしている「思い」を壊されたくないという気持ちが、「怒り」の原因かもしれない

(1)怒りの原因

かつての私は、全身全霊で強烈な自己否定の塊でした。そのため、「怒り」の感情の発生原因は「相手の中に自分の嫌いなところを見てしまったこと」である場合が、ほとんどだったのだと思います。

それから時が経ち、自己否定の心が若干薄れてきたお蔭で、それ以外にも「怒り」の感情の発生原因もありそうだと思うようになりました。周りの人の心の動きを観察しても、やはり他にもありそうな気がしています。

まだ十分には見極められてませんが、記録のためにちょっと書いてみようと思います。以下、まとまりが悪くて申し訳ありません。


(2)心のカサブタ

人はたくさんの思い込みを抱えて生きています。「○○は□□のはずだ」「××は△△のはずだ」などなど。自分が抱えている思い込みこそが正統だという思いが強ければ強いほど、その思い込みを「理不尽」に破壊しようとする人に対して、強い「怒り」の感情が発生するように思います。(例えば「これはデタラメだ!」という怒りです)

人はたくさんの希望を抱えて生きています。「○○は□□であって欲しい」「××は△△であって欲しい」などなど。自分が抱えている希望に正当性があるという思いが強ければ強いほど、その希望を「理不尽」に破壊しようとする人に対して、強い「怒り」の感情が発生するように思います。(例えば「俺の人生を返せ!」という怒りです)

同様に、人は自分の中の嫌いなところを、なかったことにして生きています。自分を美化して生きています。「私は本当は○○ではなくて□□である」「私は本当は××ではなくて△△である」などなど。自分自身に対する改竄作業(隠蔽・美化作業)が無理矢理であればあるほど、本当の姿を「理不尽」に指摘されたと感じると、強い「怒り」の感情が発生するのではないかと思います。(昨日書いたように、自分の嫌いなところを直視しない、ランダムな怒り方になると思います)

※喩えるなら、心のカサブタを無理矢理はがされたときの痛みが、「怒り」という感情なのかもしれません。喩えついでですが、心にカサブタがあるということは、その下に隠れている心の傷こそがより根本的な原因ではないかと思います。それは例えば「自己否定(劣等感)」や「自己否定の裏返しとしての無理矢理な傲慢さ」かもしれません。


(3)執着→怒り

以上をまとめると、人は様々な種類の「思い(信念体系)」を抱えて生きています。それは一般には、世界観・人間観・人生観などと呼ばれるものではないかと思います。その「思い(信念体系)」が無理矢理であればあるほど、その「思い(信念体系)」が「理不尽」な攻撃を受けたと感じたときに、強い「怒り」の感情が発生するのではないかと思います。

さらに簡潔に言い換えると、人が抱える様々な「思い(信念体系)」に対する「執着」が強ければ強いほど、それを「理不尽」に破壊しようとする人に対して、強い「怒り」の感情が発生するのではないかと思います。「思い(信念体系)」の破壊に対する「恐れ」が、「怒り」の感情の原因という見方もあるかもしれません。


(4)柔軟な心

このように考えると、心が柔軟になればなるほど(=「執着」が弱くなればなるほど)、「怒り」の感情に振り回されなくなるのではないかと思えてきます。どんなときでも冷静に対処できるようになれば、双方にとってよりよい解決策が見つけやすくなるのではないかと思います。

(こんな風に思うだけならとても簡単ですが、そんな境地に達するのはとても難しそうです…)

自分の嫌いなところを見つけるワーク

(1)自分の嫌いなところ

感情は瞬々刻々変化します。あるときは穏やかに、またあるときは激しく。観察していて飽きません。なかでも「怒り」の感情はとても興味深いです。以前、自分自身の感情の変化を観察していて、ある仮説に至りました。

仮説:「怒り」の感情が起きるのは、相手の中に自分の嫌いなところを見たときではないか…

(2)カムフラージュ

それは相手の言動の中かもしれませんし、表情の変化かもしれませんし、立ち振る舞いかもしれません。ふと相手の中に自分の嫌いなところを見てしまったとき、潜在意識から「怒り」の感情が浮かび上がってくるのではないかと思います。

ところが、潜在意識も自分の嫌いなところを直視したくありません。そこで、「怒り」の原因としてまったく別の理由をくっつけて、「○○だから腹が立った」などと因果関係が改竄された情報を顕在意識に届けるのではないかと思います。

顕在意識にしてみると、潜在意識から上がってくる情報がまさか改竄されているとは夢にも思わないので、「○○だから腹が立った」と信じてしまうのではないかと思います。その結果、話がこじれてしまうのではないかと思います。

ある時期、「怒り」の感情が湧き上がってきた状況を色々と思い出しては、類型化を試みてました。やがて、どうやら「怒り」の感情の発生には何かパターンがあるらしい、ということに気付きました。それぞれのパターンごとに共通する状況を思い出しているうちに、前述の仮説に至りました。

そして、「そうか、私は自分のこんなところが嫌いなんだ」ということに気付くことができました。

(3)意外とどうでもよい

自分の嫌いなところは、気付いてみると意外とどうでもよいことが多いです。

ひょっとしたら、昔々何かをきっかけに傷ついて嫌いになって、年月とともに傷は癒えたのに、「嫌い」という感情だけが残っているのかもしれません。

ですから、自分の嫌いなところに気付くことができると、自分の嫌いなところが減っていくのではないかと思いました。そして「怒り」の感情に振り回されにくくなるのではないかと思いました。

そこで、自分の嫌いなところを積極的に見つけるためのワークを考えてみました。十数年前に私自身で試したときには、目的を達することができました。しかし、感情の動きは一人一人違いますので、すべての人に適用できるかどうかはわかりません。もしかしたら私専用かもしれません。うまくいかなかったら、申し訳ありません。


(4)ワーク

以下は、自分の嫌いなところを見つけるためのワークです。

  1. ノートとペンを用意します。

  2. 非常に激しく腹が立ったときのことを思い出します。そして再び怒りの感情を燃え立たせます。自分を抑えられなくなるくらいにまで、激しく燃え立たせます。

  3. ノートに怒りのたけを書き殴ります。怒りの炎を燃え上がらせながら書き殴ります。その際、決して人名は書かないでください。「おまえ」とか「きさま」のような代名詞を使ってください。

  4. もうそろそろ十分だと思ったら終わりです。激しい怒りの継続時間はそんなに長くないのでご安心ください。

  5. ノートを閉じて心を落ち着けてください。心が落ち着くまでに数時間で済むこともあれば、数週間かかることもあるかもしれません。落ち着くまでノートのことは忘れてください(他の人に見られないよう、厳重に保管してください)。

  6. 心が十分に落ち着いたら、ノートを読み直してみてください。そこに書かれている言葉は、実はあなた自身に向けられた言葉だと思いませんか?

  7. 自分の嫌いなところに気付くと、気持ちがさらに冷静になると思います。そして、同じ場面を思い出しても、怒りの感情が以前より軽くなっていることに気付くと思います。

  8. 数ヶ月おきにこのワークを繰り返すと、自分の嫌いなところがさらに見えてきて、当時のことを思い出してもあまり腹が立たなくなっているのではないかと思います。やがて、このワークができないくらいに落ち着いてくるのではないかと思います(私は2〜3回くらいでそうなりました)。

  9. 怒りの炎が燃え上がらなくなったら、このワークはおしまいです。

なお、これはあくまで感情を落ち着かせるためのワークです。トラブルで補償等が必要な場合は、別途冷静に交渉してください。

※このワークで怒りの炎を燃え上がらせるのは、潜在意識から出てきた感情が、できるだけ改竄されない状態で顕在意識に届くようにするためです。怒り狂えない場合には、このワークはうまく働かないと思います。


(5)センシティブ

あれから時が経ち、「怒り」の感情の発生原因は他にもあるような気がしています。それについては、また改めて…

いずれにしても、感情的にセンシティブなところに触れられたときに、「怒り」の感情が起きるように思います。ですから、自己否定が強い人ほど、「怒り」の感情が激しく起きやすいのではないかと思います。「怒り」の感情はとても興味深いです。

出生数と国民負担率

(1)出生数

厚生労働省の人口動態統計速報によると、2021年1月の出生数は、前年1月より1万人以上減少しているそうです(7万4672人→6万3742人)。

仮に新型コロナウイルスによる世情の混乱が大きな要因になっているとすると、今後の出生数の推移には注目が必要です。少子高齢化が予想以上に加速するかもしれません。

なお、出生数を含めた人口動態調査の結果は、下記ページからダウンロードできます。


(2)国民負担率

財務省によると、国民負担率の推移は下記の通りだそうです(括弧内は潜在的な国民負担率)。

  • 2019年度: 44.4% (49.7%) … 実績
  • 2020年度: 46.1% (66.5%) … 実績見込み
  • 2021年度: 44.3% (56.5%) … 見通し

ご覧のように、2020年度の潜在的な国民負担率が 66.5% と大きく増えています。その理由は(1)財政赤字が大きく増えたこと、(2)国民所得が落ち込んだこと、のようです。

財政赤字は毎年大きく積み上がっています(2020年度の財政赤字は、近年の2〜4年分です)。一方で少子高齢化は着実に進んでいます。新型コロナウイルス対策の影響で、これから生まれてくる赤ちゃんの人数はますます減ることが予想されます。同時に、高齢化が進んで国民所得は少しずつ減っていくことと思います。その結果、年月とともに、現役世代の一人一人の負担はますます大きくなって、少子化がますます進んでいくのではないかと思います。

従って、暮らしと財政の両方の安定が望まれます。大企業を優遇しても、人々の暮らしは苦しくなるばかりです。大企業優先から人々の暮らし優先へと大きく舵を切るべきではないかと思います。


※国民負担率とは、国民所得に占める税金負担と社会保障負担の割合のことだそうです。また、潜在的な国民負担率とは、さらに財政赤字を加えた割合のことだそうです。式で書くと下記の通りです。

国民負担率=(租税負担+社会保障負担)÷国民所得 潜在的な国民負担率=(租税負担+社会保障負担+財政赤字)÷国民所得

編集長を見失って、藁にもすがる時代になった

(1)一人一人が編集長

インターネットが広く普及して、様々な情報に簡単にアクセスできるようになったのは、とても素晴らしいことだと思います。しかしながら、公開されている情報はまだまだ全体のほんの一部だと思うので、情報公開をこれからもどんどん進めていく必要があると思います。

ほんの四半世紀前までは、人々が世の中の情報を得る手段は、マスコミや書籍など、編集長の存在を前提とした媒体でした。ここで言う編集長とは、常にアンテナを張って、情報を取捨選択したり、扱いの大きさを決めたり、並べ方を決めたり、クレーム対応を指揮したりする、情報整理の責任者のことです。当時は、編集長の目を通して世の中を見てました。

ところが現代では、様々な企業、学者、政治家、評論家が発する情報を、直接受け取ることができるようになりました。それはとてもありがたい時代である一方で、情報を取捨選択するためには、一人一人が編集長の視点を身につけなくてはならない時代でもあります。


(2)情報の海で溺れる

ところが、前述の意味での編集長としてのトレーニングを受けている人は、とても少ないのではないかと思います。そのため、ついつい目先の派手な情報ばかりを追いかけてしまって、社会全体を見渡したり、重要な情報を掘り下げたりする時間を作ることは、却って難しくなっているかもしれません。

かと言って、信頼できる情報発信者を見つけようにも、そのような活動をしている人たちはあまりに多くて、一人一人の得意分野も視点も様々なので、自分が求める情報発信者を見つけることも、とても難しくなっているのではないかと思います。

従って、ほとんどの人にとって、現代は情報の海で溺れるしかない時代かもしれません。


(3)溺れる者は藁をも掴む

そこで、エイヤとばかりに、たまたま気になった情報発信者に頼ろうとする人は多いのではないかと思います。そのきっかけは、ネットや書店やクチコミやマスコミなど、現代社会のあちこちにあるのではないかと思います。

中でも多くの人にとって頼り甲斐があるのは、ビッグネームではないかと思います。超巨大組織かもしれませんし、超有名人かもしれません。自分たちで「ファクト」を見つける代わりに、ビッグネームに与えてもらう。与えられた「ファクト」の検証はせず、御託宣として 100% 信頼する。そんな時代になりつつあるのかもしれません。ある意味で、AIを受け入れやすい時代とも言えるかもしれません(深層学習型のAIは根拠を示さないので)。

このような社会状況が、昨日書いた「ニュー・ファクトの時代」の背景となっているかもしれないなぁ…なんてことを思ったので作文にしてみました。

ニュー・ファクトの時代

(1)ニュー・スピーク

ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の舞台は、「オセアニア」と呼ばれる全体主義超大国だそうです。オセアニアの公式言語は「ニュー・スピーク」と呼ばれるもので、旧来の言語「オールド・スピーク」と比べると語彙が随分と削られていて、党のイデオロギーに反する思考ができなくされているそうです。

なんとも恐ろしい言語ですが、これまでは架空の世界のお話かなと思っておりました。


(2)ニュー・○○○○の時代

この1年、世間は『○○19』の話題で持ちきりです。

聞くところによると、SNS などで運営会社の認識に反する投稿をすると、ペナルティーを受けることがあるそうです。ネット検索でも、運営会社の認識に反するページは検索対象とならないことがあるそうです。ひょっとしたら、運営会社が秘密裏に独自基準で検閲する「ニュー・インターネット」の時代が到来したのかもしれません…

また、大規模な学会の開催が難しくなったため、学術的な議論をオープンな場で行う機会が激減しているようです。ひょっとしたら、メーカーの言い分がそのまま流布される「ニュー・サイエンス」の時代が到来したのかもしれません…

1949年に出版された小説『1984年』は架空の世界のお話かと思っていたら、『○○19』を引き金として現実の世界に飛び出してきたかのようです。。(偶然にも35年ごとですね)


(3)ニュー・ファクトの時代

ファクト・チェックで重要なことは、結論に至った理由がオープンになっていることだと思います。誰もが検証や議論に参加できてこそ、信頼性の高いファクト・チェック活動ができるのだと思います。

ところが、いつの間にかファクトが密室で決められる時代へと変貌しつつあるのかもしれません。そして同時に、責任者は説明や質疑の仕方を忘れ、人々は検証や議論の仕方を忘れてしまったかのようです。ひょっとしたら、旧来の活発な「オールド・ディスカッション」は忘れ去られ、忖度に基づく「ニュー・ディスカッション」の時代へと変遷しつつあるのかもしれません…

小説『1984年』では政府内に「真理省」が設置されました。一方、現代では超巨大な多国籍企業が「ファクト」を決めて、政府が粛々と従う時代へと移行しつつあるのかもしれません。資本の論理が国家の論理より上位に位置付けられるだなんて、ひょっとしたら、小説を凌駕する「ニュー・ファクト」の時代が到来しつつあるのかもしれません…

小説『1984年』では全体主義国家が人々を統治しようとしたそうですが、現代では人々が自ら進んで超巨大企業の威光にひれ伏そうとしている。。小説『1984年』より恐ろしい時代になりつつあるのかもしれません…