法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

編集長を見失って、藁にもすがる時代になった

(1)一人一人が編集長

インターネットが広く普及して、様々な情報に簡単にアクセスできるようになったのは、とても素晴らしいことだと思います。しかしながら、公開されている情報はまだまだ全体のほんの一部だと思うので、情報公開をこれからもどんどん進めていく必要があると思います。

ほんの四半世紀前までは、人々が世の中の情報を得る手段は、マスコミや書籍など、編集長の存在を前提とした媒体でした。ここで言う編集長とは、常にアンテナを張って、情報を取捨選択したり、扱いの大きさを決めたり、並べ方を決めたり、クレーム対応を指揮したりする、情報整理の責任者のことです。当時は、編集長の目を通して世の中を見てました。

ところが現代では、様々な企業、学者、政治家、評論家が発する情報を、直接受け取ることができるようになりました。それはとてもありがたい時代である一方で、情報を取捨選択するためには、一人一人が編集長の視点を身につけなくてはならない時代でもあります。


(2)情報の海で溺れる

ところが、前述の意味での編集長としてのトレーニングを受けている人は、とても少ないのではないかと思います。そのため、ついつい目先の派手な情報ばかりを追いかけてしまって、社会全体を見渡したり、重要な情報を掘り下げたりする時間を作ることは、却って難しくなっているかもしれません。

かと言って、信頼できる情報発信者を見つけようにも、そのような活動をしている人たちはあまりに多くて、一人一人の得意分野も視点も様々なので、自分が求める情報発信者を見つけることも、とても難しくなっているのではないかと思います。

従って、ほとんどの人にとって、現代は情報の海で溺れるしかない時代かもしれません。


(3)溺れる者は藁をも掴む

そこで、エイヤとばかりに、たまたま気になった情報発信者に頼ろうとする人は多いのではないかと思います。そのきっかけは、ネットや書店やクチコミやマスコミなど、現代社会のあちこちにあるのではないかと思います。

中でも多くの人にとって頼り甲斐があるのは、ビッグネームではないかと思います。超巨大組織かもしれませんし、超有名人かもしれません。自分たちで「ファクト」を見つける代わりに、ビッグネームに与えてもらう。与えられた「ファクト」の検証はせず、御託宣として 100% 信頼する。そんな時代になりつつあるのかもしれません。ある意味で、AIを受け入れやすい時代とも言えるかもしれません(深層学習型のAIは根拠を示さないので)。

このような社会状況が、昨日書いた「ニュー・ファクトの時代」の背景となっているかもしれないなぁ…なんてことを思ったので作文にしてみました。