法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

「信念世界」は演繹的、「仮説世界」は帰納的

(1)「信念世界」と「仮説世界」

昨日「信念世界」と「仮説世界」についても書きましたが、世の中には「信念世界」に重心を置く人たちと、「仮説世界」に重心を置く人たちの、2種類の人たちがいるように思います。(他の種類の人たちもいるかもしれません)

「信念世界」に重心を置く人たちと、「仮説世界」に重心を置く人たちでは、人の話の聞き方も、説明の仕方も随分と違うように思います。


(2)「信念世界」に重心を置く人

「信念世界」に重心を置く人たちが「わかった!」と思うのは、自分の「信念世界」における位置付けをピタリと見つけたと思ったときではないかと思います。実際にピッタリ合っているかどうかはあまり問題ではありません。「わかった!」と思うことが大切なようです。

一旦「わかった!」と思ったら、その理解を前提に話を聞くようになります。自分の理解と相手の話がマッチしていなくてもあまり問題ではなくて、いろいろと理由をつけては自分の理解をベースに話を聞いていくようです。そして最後に「やっぱり思った通りだ!」と思うようです。そのため、どうしても誤解が発生しやすいように思います。

このような誤解を避けるために、「信念世界」に重心を置く人たちどうしが話をするときは、早とちりを避けるように気をつけながら話をするようです。例えば、まずは背景の話から始めて、だんだんと詳細化していって、最後にようやく本題を出すような話し方です。このようにすると、「信念世界」における位置付けを誤解される可能性が低くなるからではないかと思います。

幸い、「信念世界」の内容が近い人どうしのコミュニケーションであれば、話をかなり簡略化できるようです。すなわち、「同じ釜の飯を食った仲」どうしであれば、短いやりとりでたくさんの情報が交換できて、とても便利なようです。逆に「信念世界」の内容が遠い人どうしのコミュニケーションは、どんなに手間暇かけても誤解の余地が残ってしまうのではないかと思います。


(3)「仮説世界」に重心を置く人

それに対して「仮説世界」に重心を置く人たちが話をするときは、まず観察結果をいくつか述べて、そこから仮説を導くような順序になるように思います。すなわち、話し手の推論過程を追体験してもらうような説明の仕方です。

同様に、「仮説世界」に重心を置く人たちが話を聞くときも、相手の話から観察事実を拾い集めて、そこから仮説を導くような聞き方をするのではないかと思います。

したがって、「仮説世界」に重心を置く人どうしであれば、話が噛み合いやすいのではないかと思います。常に一定量のやりとりが必要になる代わりに、誤解の余地を少なくすることができるのではないかと思います。


(4)演繹と帰納

言い換えると、「信念世界」に重心を置く人たちは、この世を理解するために演繹(deduction)を得意とする人たちとも言えます。また、「仮説世界」に重心を置く人たちは、この世を理解するために帰納(induction)を得意とする人たちとも言えます。

このように推論の方向性が真逆なので、話がなかなか噛み合いません。これは仕方のないことなのかもしれません。