法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

結論ありきの思考方式と常識と大樹の陰と

(1)頭の中

歴史上の人物の頭の中を窺い知ろうと思ったら、入手可能な文献等から推測するしかありません。古今東西の学者や作家の腕の見せ所ではないかと思います。

一方、同時代の人物の頭の中を覗き見ようと思ったら、著作物・逸話・評判などから推測したり、対話を通して掘り下げたりなど、手段は豊富にあります。その結果、わかったつもりになることはできるかもしれませんが、本当にわかるのはとても難しいのではないかと思います。仮にこの世で一番親しい人であったとしても…です。


(2)思考方式

同様に、同時代の人たちが日常的に使っている「思考方式」も、窺い知ることが難しいテーマのひとつのように思います。自分自身の頭の中を覗き見ることはほとんど不可能だからでもあり、また自分自身にとっての「当たり前」を自分自身で認識することは非常に難しいからでもあります。

これまでの様々な経験からの印象では、次のような「思考方式」を取っている人が見受けられるように思います。

  1. まず、結論の方向性を決めます。例えば、結論の自由度が高いときは、「私は偉大だ」「あいつはバカだ」「○○はスゴイ」「××はヒドイ」「□□はコワイ」「△△はデタラメ」などです(印象等から無意識のうちに瞬間的に決まるようです)。あるいは、エライ人から直接間接に結論の方向性を示されたときは、最大限に従います。

  2. 次に、結論の方向性に向けて思考します。その際、情報のつまみ食いや曲解、論理の飛躍、空想を多用します。

  3. 最後に、思考過程をストーリー化して結論報告とします。

このように、思考結果への指向性が極めて高い思考方式が取られることがあるように思います。おそらく、納得感が非常に高く、かつ想定内にぴたりと収まる理想的な結論が得られるからではないかと思います。そのため、この思考方式を上手に使いこなせる人は、コミュニティのオピニオン・リーダーになりやすいのではないかと思います。

ただし、結論は秘匿される傾向にあり、鵜呑みにしてくれる人に限定して流布されることが多いように思います(一種の密室主義)。特に反論する可能性のある人(当事者など)には、秘される傾向があるように思います。結論と事実が大きく乖離している可能性が高いため、どこか後ろめたさがあるのかもしれませんし、あるいは事実に基づいた反論により結論が崩壊することを恐れてのことかもしれません。ひょっとしたら「井の中の蛙」でいることが快適なのかもしれませんし、「高みの見物」を決め込みたいのかもしれません。いずれにしても、反論から距離を置くところに特徴があるように思います。


(3)本音と建前

前述の思考方式を用いて一人一人が出した結論は「本音」に分類されるように思います。

おしゃべり・噂話などを通して「本音」をジャブのように交換する中で、コミュニティとしての合意が形作られていくのではないかと思います。結論には、エライ人の意向や都合、多くの人の不安や期待などが折り込まれたものとなっているのではないかと思います。この結論は「建前」に分類されるように思います。

噂話の参加者は、建前に納得して本音を変えることもあれば、本音と建前が別々のままのこともあるのではないかと思います。そして、TPO に応じて本音と建前を使い分けるのではないかと思います。


(4)常識

組織のトップが合意形成に参加した場合は、組織において特別な意味を持つのではないかと思います。その結論が上意下達で指示・命令として降りてくることもあれば、伝聞形式で忖度を要求されることもあるのではないかと思います。

学問の成果のうち、エライ人たちの意向に沿ったものは、常識として広く流布されるように思います。逆に意向に反するものは、流布を阻止されることがあるように思います。エライ人たちの意向に沿った研究活動に潤沢な資金が流入することが多いため、エライ人たちの意向に沿った研究成果が生まれやすいようにも思います。

また、長い歴史の中で合意形成された伝統も、重要視されることが多いのではないかと思います。中でも、歴代のエライ人たちの意向に沿った伝統が注目を集めやすいように思います。

このようにして、社会の常識や組織の常識が生まれるのではないかと思います。こうして作られた常識は「建前」に属するのではないかと思います。

前述の噂話と同様、常識についても、建前に納得して本音を変えることもあれば、本音と建前が別々のままのこともあるのではないかと思います。そして、TPO に応じて本音と建前を使い分けるのではないかと思います。


(5)堅牢性

一旦出来上がった常識や噂話には、様々な人たちの意向・都合・不安・期待などが折り込まれているため、個人の力で書き換えることは大変難しくなっているのではないかと思います。

そのため、常識や噂話に大きく反する主張は、たとえそれが事実に基づいたものであったとしても、簡単には受け入れてもらえないのではないかと思います。(場合によっては、個人の本音に組み込まれることはあるかもしれません)

言い換えると、常識や噂話では「真偽」という視点は軽視され、発言者の影響力がものを言うのではないかと思います。


(6)怒りと不安

一人一人の思考結果や、噂話や、常識は、それ以降の言動や思考の前提情報となるのではないかと思います。

これらの前提情報はいずれも前述の思考形式の産物なので、怒りや不安の原因となりやすいのではないかと思います。すなわち、前提情報から外れた言動を見ると怒りが沸き上がり、前提情報から外れた新情報が現れると不安に駆られるのではないかと思います。

その結果、常識から外れた言動を取ると世間の怒りを買うことになり、常識に合わせざるを得なくなることが多いのではないかと思います。これが同調圧力と呼ばれるものではないかと思います。

また、予想外の事態が発生すると世間の人々が大きな不安を抱えるため、事実を冷静に発表するよりも、安心感のある呼びかけを発信する方が好まれるのではないかと思います。


(7)爪弾き

常識や噂話から乖離してしまった人は、同調圧力を受ける可能性があるように思います。そして、頑張って自分を常識や噂話に合わせるか、諦めて爪弾きにされるか、二者択一を迫られることになるのではないかと思います。

爪弾きになりたくない人は、常識や噂話に自分を合わせようと努力した結果として、流行を追いかけたり(短期的努力)、社会的ステータスを重視したり(長期的努力)するのではないかと思います。

しかし中には、健康的・経済的・社会的な理由などから、どうしても常識や噂話に合わせられない人もいると思います。それでも頑張って世間の中で生きる人もいれば、隠れて(あるいは隠されて)暮らすことを選ぶ人もいるのではないかと思います。

街中を普通に歩いている人は、もしかたら世間の常識や噂話に合わせられた幸運な人だけかもしれません。


(8)寄らば大樹の陰

常識も噂話も、エライ人の意向や都合が優先されるので、強者の論理に基づいているように思います。したがって、常識や噂話に従うことは「寄らば大樹の陰」の実践と言えるかもしれません。その結果、回り回って知らないうちに弱者にシワ寄せを強いている可能性は十分に考えられるように思います。

すなわち、常識や噂話に従うことは、「弱きを助け、強きをくじく」と正反対の、「強きにかしずき、弱きをくじく」の実践となっているのかもしれません。かと言って、常識や噂話から外れた言動を取ると、社会的に痛い目にあう可能性が高いのではないかと思います。

もしかしたら現代日本に生きる私たちは、弱者を痛い目に「あわせる」立場を取るか、弱者となって痛い目に「あう」立場を取るか、二者択一を迫られているのかもしれません。その結果、前者を選ぶ人が多いのかもしれません。この二者択一から脱出できると、生きるのが楽になるかもしれません。