法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

事実から組み立てる

(1)人それぞれ

この世に生きる一人一人を見てみると、生まれてこのかたの経験は随分と違っていて、ものの見方も考え方も随分と違っていて、頭の中をうごめいていることも全然違うのではないかと思います。そのため、毎日顔を合わせる人たち同士でも、わかり合える部分もあれば、まったくわかり合えない部分もあるのではないかと思います。


(2)過程を楽しむ

例えば私は、身の回りを観察してルールを見つけていくことが好きです。たくさんの経験から共通ルールを見つけては仮説として立てて、もっとたくさんの経験を思い出して検証したり、現実世界で実験したりを繰り返しながら仮説をブラッシュアップしていく過程が好きです。

本を読んだり、詳しい人から教えてもらうこともありますが、それは一旦仮説として受け取ります。そして可能な範囲で実体験を通して試したいと思っています。例えば、「○○がよい」と聞いたら「○○」を試すだけでなく、それ以外の可能性も色々と試してみて確かに「○○がよい」ことを確認したくなります。「□□はダメ」と聞いた場合も同様です。

(ただし実際には、時間や予算の制約から、自分自身で確認できるのはほんの一部だけです。しかしそのような感性を持っているので、人様から言われた通りに行動するのは、あまり得意ではありません…)

そんな風にして、ひとつひとつの仮説について、確からしさを試したり、仮説をブラッシュアップしたりしていく過程がとても好きです。時間も予算もかかるので、傍目には効率が悪いように見えるかもしれません。しかし、その過程こそが私の楽しみとなっています。

ですから、世の中はわからないことだらけで、常識は間違いだらけだろうと思っています。わからないことだらけだからこそ、わからないことの中からルールを見つけ出していく過程を、ワクワクしながら楽しんでいます。その結果、世間の常識とは大きく異なる人間観・世界観・宇宙観を抱いて、世間の常識とは大きく異なる言動を繰り返す変な人になっているのではないかと思います。


(3)鵜呑みを楽しむ

これまで出会った方々のことを思い出してみると、(講師・書籍・マスコミなど)詳しそうな人から教えてもらったことを鵜呑みにする(=理解したり覚えたりする)ことこそが勉強だと考えている人もいるように思います。一所懸命勉強した人の中には、自分のことを権威の代理人と考える人もいるようです。そうやって学んだことをもとに、人生観や世界観を構築しているようです。

一見すると効率がよさそうですが、自分自身の視点が育ってないと、知識が古くて、理解が浅くて、勘違いが多くなる可能性があるのではないかと思います(その傾向は強いように思います)。下手をすると、主体的に判断しているつもりでも、実際には与えられた情報に操られてしまう危険性があるように思います(=ミームに踊らされている状態)。

また、与えられた知識ばかりに頼っていると、応用力が低くなってしまう可能性があるのではないかと思います。そのため、学んだことの範囲で対処できない場合に、どうすればよいかわからなくなりやすいのではないかと思います。そこで、問題をなかったことにしてみたり、付け焼き刃の知識に頼って痛い目にあったり、正しそうな情報が見つけられなくて不安でいっぱいになったりするのかもしれません。


(4)一人噂話

心の中が不安でいっぱいになったときに登場するのが、噂話ではないかと思うことがあります。

詳しそうな人から教えてもらった範囲では対処できなくて、オロオロしながらまずは心の中で一人で噂話を始めるのではないかと思います。「こうではないか」「ああではないか」「そうかもしれない」「きっとそうだ」などです。

しかしそれだけでは不安なので、親しい人たちと噂話をするのではないかと思います。そうやってみんなで認識を合わせることで安心感を得るのではないかと思います。もしかしたら有力者の鶴の一声は、構成員の不安を和らげる絶大な効果があるのかもしれません。

そうやってできあがった噂話は、一人一人の不安の反映でもあり、反発して強がっている気持ちの反映でもあり、知ったかぶりの気持ちの反映でもあり、損得感情との妥協でもあり、忖度と責任転嫁の塊でもあり。。そうやって、みんなの納得感が一番強いストーリーが形作られていくのではないかと思います。そして、心の中が不安でいっぱいになった人たちの心の拠り所になるのではないかと思います。(不安でいっぱいでも大丈夫なんだ…という気持ちも含めて)

だからこそ、噂話を転覆させかねない情報を持っている人たちの耳には、噂話は届かないようになっているのではないかとも思います(例:悪者にされた人、責任転嫁された人、シワ寄せされた人など)。

※すみません、この節はかなり想像です。


(5)事実を大切にする社会へ

世の中には、事実に基づいた世界観を大切にするコミュニティと、噂話に基づいた世界観を大切にするコミュニティがあるのではないかと思います。(方法論だけを見ると、論理学でいうところの「帰納法(induction)」と「演繹法(deduction)」の違いに少し似ているところがあるかもしれません)

現代日本は、上から下まで噂話の論理によって動いているのではないかと思うことがあります。そして噂話が事実を押しつぶしているのではないかと思います。まるで、それ以外の方法論をすっかり忘れてしまったかの如くです。たくさんの噂話どうしが勢力争いをして、心のエネルギーを随分とすり減らしながら生きているのではないかと思います。

そこで、事実を大切にする社会、事実に基づいて議論する社会へと変わっていく必要があるのではないかと思います。おそらく、戦後の復興期から高度経済成長期にかけて大発展した会社は、(当時の話を読み聞きする範囲では)そのような企業文化を持っていたのではないかと思います。重役と平社員が喧喧囂囂、自由闊達に議論していたようです。ところが、事業が発展するにつれて噂話文化が持ち込まれて(派閥やら忖度やら)、大企業病に陥ってしまったのではないかと想像しています。

気がつけば、日本は世界からすっかり取り残されてしまいました。もう一度敗戦したつもりになって、事実を大切にする社会へと変わっていく必要があるのではないかと思います。