法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

「威張る(いばる)」と「怒る(いかる)」

(1)威張ると怒る

人を動かす方法は、大きく分けて2種類あるように思います。イソップ寓話『北風と太陽』で喩えるなら、北風方式と太陽方式です。

北風方式にも色々あると思いますが、私にとって一番印象的なのは、「威張る(いばる)」「怒る(いかる)」です。直接的には、威勢を張り合ったり、相手を萎縮させたりする行為です。しかしそれだけではなく、このふたつには見えないルールがあるのではないかと思うことがあります。多くの人は、幼い頃からのたくさんの経験を通して、暗黙のルールを身につけているのではないかと思います。(私は身に付けてません…)

日本社会には、目に見えない格上・格下関係があるのではないかと思います。威張ったり怒ったりすることが許されるのは、相対的に格上の人だけのように思います。

特に大勢の人の前で威張れるのは、その中でトップクラスの人だけに許された特権ではないかと思います。仮にそれ以外の人が威張ると、下剋上の試みと見なされて、後で痛い目にあわされる可能性が高いのではないかと思います。

同様に、大勢の人の前で怒ることができるのは、基本的にはその中でトップクラスの人だけではないかと思います。ただし、トップクラスの人の代役で他の人が怒ることはできるように思います。

こんな風に、威張ったり怒ったりするときは、目に見えない序列を意識して行われるのではないかと思います。逆に、威張ったり怒ったりすることを通して、コミュニティの中での序列が形成されているという側面もあるかもしれません。日本社会では、威張ったり怒ったりすることは、一種の神聖な儀式でもあるのかもしれません。

※「いばる」と「いかる」は発音も似てますね。


(2)3種類の人たち

日本社会では、威張ったり怒ったりすることは特別な意味を持っているようです。そのため、選ばれた人だけが威張ることを許され、それ以外の人は一定条件下でのみ怒ることを許されているのではないかと思います。しかし中には、そういったルールに無頓着な人もいるように思います。

したがって、威張ったり怒ったりすることのできる人は、大きく分けて3種類に分類できるように思います。

  1. 「威張る」かつ「怒る」
  2. 「怒る」
  3. (気にしない)

大雑把に言うと、1番は威張り散らす人、2番は無難を目指す人、3番は我が道を行く人、です。

1番の威張り散らす人には、コミュニティ内の常識や噂話を作る権限があるように思います。2番の無難を目指す人は、基本的には常識や噂話に従うしかありませんが、威張り散らす人のお気に入りになれば、若干の修正提案をすることはできるようです。また、常識と噂話の範囲内であれば、格下に対して怒ることが許されるようです。3番の我が道を行く人は、コミュニティの辺縁部にしか生息できないように思います。


(3)「誰が」から「何が」へ

日本社会は、威張ったり怒ったりすることで序列が決まって、序列の高い人が権力を欲しいままにできる社会ではないかと思うことがあります。それと同時に、序列の高い人たちは、支援者が利益を生み出せる仕組みを作ったり、序列の引く人たちの食い扶持を作ったりする義務を負う社会でもあるように思います。すなわち、昔ながらの親分子分関係が残っているのではないかと思います。(例えば、昭和期の終身雇用は親分子分関係のひとつの現れ方ではないかと思います)

言い換えると、「何が」正しいかではなく、「誰が」エライかで物事が決まる社会ではないかと思います。そしてエライ人たちは、西欧の「ノブレス・オブリージュ」とはまったく別の種類の、日本社会独自の義務を負っているのではないかと思います。

エライ人たちの権利と義務を同時に果たすために発達したのが、日本式の「利権」ではないかと思います。親分に大きな権力を与えると同時に、支援者や子分に利益分配を義務付けるシステムとなっているのではないかと思います。日本社会の暗黙のルールに従っている限り、食いっぱぐれる心配はないシステムとなっているのかもしれません。そのため、どんな不祥事に見舞われても、看板役が代理で倒れるだけで、親分は安泰なのではないかと思います。その代わり、親分の心労はとても大きいのではないかと思います。

日本では利権システムの構築・拡大はとても重要視されているように思います。そのため、正誤の判断ですら、その文脈で行われているように思います。例えば、世界の常識や客観的事実よりも、利権の論理が優先されているように思います。

そのような性質を持っているがゆえに、日本国内でしか威力を発揮しないのではないかと思います。日本国内で利権システムが強烈に発達した結果、国際社会においては日本はすっかり落ちぶれてしまったのではないかと思います。

日本が再び発展していくためには、「何が」正しいかを重視する人たちが活躍できる社会にする必要があると思います。そのためには、前述の3番の我が道を行く人たちが自由闊達に活躍できる社会にしていく必要があると思います。


(4)何を重視するか

最後に、少し別の角度から…

前述の通り、日本社会は「序列」を重視するように思います。コミュニティにおける序列が、人生に大きな影響を与えているように思います。だからこそ日本では出世が尊ばれるのではないかと思います。逆に「価値」は枝葉のように扱われているのではないかと思います。

それに対して、欧米社会は「価値」を重視するように思います。思想・信条・宗教であったり、資産・贅沢・名誉であったり… 価値との関係が人生観に大きな影響を与えているのではないかと思います。社会階層の違いはとても大きいようですが、「価値」を共有している人たちどうしは団結しやすいのではないかしら…

インド社会では、また全然違うのではないかと思います。

重視するものは、時代により、地域により、大きく異なるのではないかと思います。重視するものを、人間の外に置く文化もあれば(例:欧米)、人間関係に置く文化もあり(例:日本)、きっと人間の内面に求める文化もあると思います(例:もしかしたらインド)。

どれがベストかは一概には言えないと思います。ちなみに私は変遷を経て、最近は人間の内面に求めたいと思うようになりました。そんな時期があってもよいですよね(笑)