法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

理屈をこねてアタマで納得するか、体験を通してハラで納得するか

(1)物質文明

現代の物質文明は下記の特徴を持っているように思います。

「現状の自分(たち)を否定して高邁な理想を掲げる。理想が高すぎるがゆえに、理想と駆け離れた現実を直視できない。現実を直視できないので、現実が生み出す大きな歪みに効果的な対策が打てない。そこで対症療法として、立場の弱い人たちに無理矢理シワ寄せする。」

多くの現代人が共有している「高邁な理想」は、おそらく「物質的にも経済的にも情報的にもより豊かになる」のような内容ではないかと思います。多くの人にとっては、一生をかけても色褪せることのない魅力的な目標ではないかと思います。


(2)共感

しかし現代日本では、目標達成のための道筋はまったく見えません。そこで、学歴・派閥・人脈・商才・技術・根性など、人それぞれの方法論で取り組んでいるのではないかと思います。そして、人知れず大きな苦悩を抱えているのではないかと思います。

だからこそ、高邁な理想を掲げて頑張っている姿を見ると、共感して応援たくなる人が多いのかもしれません。ときには、彼らの掲げる理想像・現状認識・達成手段等の妥当性とは関係なく… すなわち、実態より威勢のよさ、計画より人柄や期待感が重視されるのが現代日本の特徴かもしれません。

そしてこれが、自己否定の心が強くて、その反動で威圧的に振る舞う人たちにも支援者が現れる理由のひとつかもしれません。彼らは現代社会のバグを上手に利用して生きているのかもしれません。


(3)低気圧と高気圧

自己否定の心が強くて、その反動で威圧的に振る舞う人たちは、言い換えると煩悩が大きい人でもあります。なんでもかんでも自分の思い通りにしたい、自分のものにしたい。他人も公共もなにもかも自分の支配下に収めたい、覇者になりたい。喩えるならバキュームカーの権化のような欲望を抱えているのではないかと思います。

逆に自己否定の心が小さい人は、煩悩が小さい人でもあります。そして、身の回りの人たちや世の中の役に立ちたいと思っているのではないかと思います。その時々で必要な物質的なもの、精神的なものを与える人ではないかと思います。

欲しがる人と与える人の対比は、天気図で言えば低気圧と高気圧に喩えられるように思います。低気圧は周辺から風を吸い込み、曇り空を生み出します。気圧が極端に下がると台風となって、暴風雨圏を生み出します。高気圧は周辺に風を送り出し、晴天を生み出します。人々の気持ちが晴れ晴れします。

もちろん、大地には晴れの日も雨の日も必要ですから、低気圧も高気圧もどちらも必要です。ただし「過ぎたるは及ばざるが如し」という側面もあるように思います。

同様に、人間社会にも欲しがる人と与える人はどちらも必要なのかもしれません。あるいは人生の段階において、あるときは欲しがる人、あるときは与える人になるのかもしれません。そうやって支え合って生きているのかもしれません。ただし天候同様に「過ぎたるは及ばざるが如し」という側面があるのかもしれません。


(4)アタマとハラ

現代社会のバグを上手に利用して生きる人たちは、生まれてこのかたの経験の中から、珠玉の生き方としてそのような生き方を学んできたのではないかと思います。そして、それ以外の生き方を知らないのではないかと思います。しかし、周りの人たちの人生を踏み潰すことで憂さ晴らしをせざるをえないとしたら、本当は心の中に大きな苦悩を抱えているのではないかと思います。

だからと言って、まったく異なる生き方を口頭で教え諭されても、反発するだけではないかと思います。理屈をこねてアタマで納得してもらうのではなく、体験を通してハラで納得してもらう必要があるのではないかと思います。まったく異なる生き方があることが腑に落ちるような体験をすると、生き方がガラッと変わる可能性を秘めているのではないかと思います。

思い出してみると、宗教書は理屈と物語から成っているように思います。宗教書が物語を大切にする理由は、その辺りにあるのかもしれません。同様に、人々が物語を大切にする理由も、その辺りにあるのかもしれません。

私にはアタマからハラへのジャンプが必要なのかもしれません。