法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

高邁な理想像と実態とシワ寄せと

(1)虎の威を借る狐

威張ったり怒ったりすることは特別な魔力を持っているようで、自分に都合のよい噂話を広めるための手段として上手に活用している人たちがいるように思います。

しかし色々と思い出してみると、権力者がバックにいるときに特に効果が高かったように思います。「虎の威を借る狐」が威張ったり怒ったりしているときは、従順に従わないと痛い目に合わされることは社会人としての常識なのかもしれません(私が知らなかっただけかもしれません)。そこで、威張ったり怒ったりしたい人たちは、権力者を手玉に取るための努力を欠かさないのかもしれません。

また、私が体験したことは特殊事例かと以前は思ってましたが、もしかしたら政官財学で出世コースを歩む人たちの間では広く行われていることかもしれません。威張ったり怒ったりすることは、立場の弱い人たち思い通りに従わせるための効果的な手段として広く活用されているのかもしれません。(報道の端端から受ける印象からの推測です)


(2)国家や企業

自分に都合のよい噂話を広めることに限ると、個人に限った話ではなく、国家や企業も行っているように思います。

国家も企業も、自分たちがいかに優れているか、いかにすばらしいか、いかに世の中に貢献しているか、宣伝を惜しみません。宣伝されている側面にだけ注目すると、確かにそのような見方もできるのかもしれません。しかし、実態をよくよく見てみると、宣伝されていることは「大きな理想」にすぎず、現状とは大きくかけ離れていることはよくあることではないかと思います。そればかりか、「大きな理想」と駆け離れた現状ですら、弱者に大きくシワ寄せをすることでようやく維持できていることも、よくあることではないかと思います。


(3)表舞台と舞台裏

こうして見てみると、個人も企業も国家も同じようなことをしているのかもしれません。

すなわち、現状の自分たちを否定して「大きな理想」を掲げる。理想が高すぎるがゆえに、理想と駆け離れた現実を直視できない。現実を直視できないので、現実が生み出す大きな歪みに効果的な対策が打てない。そこで対症療法として、立場の弱い人たちにシワ寄せする。

そのため、表舞台では理想像を声高に語る一方で、舞台裏を必死で隠蔽するしかないのかもしれません。舞台裏を必死に取り繕う姿が、タチの悪いチンピラに見えたり、他人の不幸を喜ぶ悪魔に見えたりするのかもしれません。

その結果、表舞台しか知らない人たちからは最高の評価を得ると同時に、舞台裏を知る人たちからは最悪の評価を得るのかもしれません。


(4)集団のトラウマ

現実と駆け離れた「高邁な理想像」をいかにも「達成された状態」であるかのように語る人は、自己否定の心が強すぎて、現状を直視できないのではないかと思います。「高邁な理想像」こそが現実だと思い込むことによって、心のバランスを取っているのかもしれません。現実を直視させられたときは、心が怒りの感情に乗っ取られて、チンピラか悪魔になってしまうのかもしれません。

同様に、「高邁な理想像」をいかにも「達成された状態」であるかのように語る国家や企業も、集団心理における自己否定の心が強すぎて、現実を直視できないのかもしれません。「高邁な理想像」こそが現実だと思い込むことによって、集団心理の心のバランスを取っているのかもしれません。現実を直視させられたときは、集団心理が怒りに乗っ取られて、誤動作してしまうのかもしれません。

このように考えると、世界平和のためには、個人の心だけでなく、集団としての心も、癒していく必要があるのかもしれません。したがって、聖者が何人現れても世界平和までの道のりは遠く険しいのは仕方のないことなのかもしれません…