法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

ファクト争い

(1)ファクトは多様

ファクト(事実)は何か?とても重要な問いですが、きちんと調べるのはとても難しい問いでもあります。だからこそ日本の裁判制度は三審制を採っているのだと思いますが、それでも冤罪を100%回避することは難しいことのように思います。

政治が絡むとさらに複雑になるようです。東西冷戦時代には東西で「ファクト」とされることが違っていたのではないかと思います。現代でも、国によって、あるいはグループによって「ファクト」とされることが異なっている例はたくさんあるのではないかと思います。

さらには、学術界においても、産業界においても、技術分野においても、「ファクト」とされることが人によって、派閥によって違っていることは多いのではないかと思います。古今東西、そのような例は数え切れないほどあるのではないかと思います。

※「藪の中」の語源となった芥川龍之介(著)「藪の中」はまさに、人によって「ファクト」が異なることをテーマとした小説だったと記憶しています。

(2)判定方法の違い

本来はひとつであるはずのファクトが多様となってしまう原因は、ひとりひとりの内面の違いにあるのではないかと思います。ひとりひとりの感受性や認識力や世界観・人間観の微妙な違いが、外界認識アルゴリズムに小さな違いを生み、それが人生経験と相俟って、「ファクト」判定方法に大きな影響を与えているのではないかと思います。

世の中には、「親分の言うことが正しいと無意識のうちに思っている人」「権威のある人が正しいと無意識のうちに思っている人」「救世主の言うことが正しいと無意識のうちに思っている人」「好感の持てる人の言うことが正しいと無意識のうちに思っている人」「自分の考えることが正しいと無意識のうちに思っている人」などなど、いろいろなタイプの人がいると思います。

すると、「ファクト」は何かを調べているようでいて、実は「誰が親分か?」「誰が権威があるか?」「誰が救世主か?」「誰がよい人か?」「威張れそうか?」などの問いを無意識に追いかけているのではないかと思います。無意識の問いの答えが決まってから、「ファクト」判定が決まることが多いのではないかと思います。

「ファクト」をきちんと判断するのはとても難しく、人によって判定が違ってしまうが故に、世の中の「ファクト」は多様にならざるを得ないのではないかと思います。残念ながら、「ファクト」をひとつに絞るのはとても難しいのではないかと思います。

(3)闘争のない世界へ

インターネットの普及・発展により「ファクト」判定方法が似ている人達同士のコミュニケーションが活発になり、地球上には平行世界がたくさん生まれているのではないかと思います。

しかし、「ファクト」の中身がどんなに違っても、結局は敵味方に分かれて闘争しているのであれば、同類項としてまとめて考えてもよいのではないかと思います。表面的に仲良くしてても、心の中に闘争心があれば、やはり同類項だと思います。闘争心に蓋をして仲良くしていても、心の中から闘争心が消えていなければ、それも同類項と判断せざるを得ないと思います。

できることなら、闘争のない世界、闘争の起こらない世界を目指したいです。どうやったらそんな世界になるんだろう… まずは私の中から攻撃的な心を無くすことから始めたいと思います。難しいぞ〜♪


備忘録:例えば「世界一高い山」ですら判定方法によって結果が異なるそうです。もっと複雑なことになると、判定方法を合わせることすら難しく、「ファクト」判定が現実的な不可能なことはたくさんあるのではないかと思います。