法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

想像力より観察力

私は自分の症状を人様に伝えることがいつも上手にできません。そのため、相手によって伝わり方が全然違うようです。私の表現力が拙いので、相手の受け取る力に強く依存しているからだと思います。

つい先日も、同じ文面をお渡しして、まったく異なる対応を受けました。

ある方は、初対面の私の様子を見ながら最大限の配慮をしてくださり、とても丁重に接してくださいました。「この言葉で何を伝えようとしているのだろう?」と考えてくださったのではないかと思います。初対面なので念の為の意味もあったのでしょう、若干過剰なほどに丁重でした。しかし、もしもこれからもお会いする機会があれば、私の状態について少しずつ理解を深めてくださって、私のできることできないことを配慮しながらご対応くださるのではないかと思いました。

別の方は、表面的には丁寧に接してくださいましたが、端々で鼻で笑われているような印象を受けました。知識と体験をもとに、「この言葉はきっとこういう意味だろう」と想像して、それに基づいて接してくださったのではないかと思います。「その程度のことで甘えるな」「大袈裟に考えてるだけだろう」と思われたのかもしれません。

立場の違い、体験の違いなどによって、人を見る目が全然違ってしまっているのではないかな、と思いました。


子どもの頃に読んだアンデルセン童話『裸の王様』で一番印象に残っているのは、馬鹿には見えないとされる装束を着た王様が得意気にパレードをしている姿を見て、子どもが「王様は裸だ!」と叫ぶシーンです。その一言で王様の虚偽が沿道の人々の口に上るようになりました。

童話『裸の王様』では仕立て屋は詐欺師という設定になっているので、子どもはフェイクを見破りファクトを指摘した英雄とされています。では現実世界でフェイクとファクトを判別することは簡単なことでしょうか?

例えば、道元の著作の解釈は人によって大きく異なると思います。解釈の仕方によってフェイクとファクトの判別が全然違ってくるかもしれません。あるいは、政治・経済・社会の分野でもフェイクとファクトの判別は人によって大きく異なっていることはよくあるように思います。技術分野でも、研究開発に没頭して権力闘争に興味のない人と、逆に権力闘争に没頭して研究開発を置き去りにしている人とでは、技術的な常識もセンスも大きく異なります。思い描く未来の姿によっても大きく異なります。そのため、フェイクとファクトの判別は人によって大きく異なっているように思います。

こうして考えてみると、たくさんある解釈の中でどの解釈が正しいのか、その判定が簡単にできる分野は意外と限られているのかもしれません。したがって、私の症状の解釈が人によって大きく異なるのは当たり前のことなのかもしれません。


そうは言っても、希望としては、想像力より観察力を重視して欲しいなぁと思います。想像力を重視すると大きな誤解を抱きがちだからです。かなりわがままな希望かもしれませんが…

しかしながら、日々の体験は私自身の心の鏡だと思いますので、まずは私自身を改めるところから始めないといけないんだろうなと思います。