法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

個性≠首輪+紐+杭

日本語の「個性」という言葉の意味がずっとわからないでいました。

なにか標準的な規範があって、そこから少しだけずれているときは「個性」として容認され、時には称賛されるけど、うっかりたくさんずれてしまうと非難や矯正の対象となってしまう。ところが容認と非難の境界線はまったく不明。そんな窮屈かなイメージがありました。周囲から許された範囲でしか規範からずれることができない。自分を作らないと生きていけない。それって「個性」って言うのかな…、与えられた「制服」を着こなしてるだけじゃないのかな…

そんな気持ちを喩えるなら、首輪をつけられて紐で杭につながれたイヌやヤギのような、ペットや家畜のような生き方。飼い主の顔色を伺いながら、飼い主のご機嫌を取りながら、聞き分けのよい子と褒められながら愛玩される生き方。そんな人生なんてポイしたいと思ってました。(まったくネガティヴな発想ですね…笑)

まぁここまで極端ではないにしろ、首輪をつけられて紐で杭につながれたような生き方や対人関係しか知らない人は、ひょっとしたら多いのではないかと思うことがあります。目上の人には嬉々として首輪をつけてもらって、目下の人には粛々と首輪をつけていく。そんな対人関係が上から下まで続いているのかもしれません…

仮にそのような状態が社会全体で空気のように当たり前になっているとしたら…、それが社会の秩序として歓迎されているとしたら…、そしてそれ以外の対人関係を誰も知らないとしたら…、そこから外れることに強い恐怖心を抱いてしまう人はもしかしたら沢山いるかもしれません。喩えるなら、スヌーピーで有名な漫画『ピーナッツ』に登場するライナスがいつもブランケット(安心毛布)を持っているように、「首輪+紐+杭」で社会全体が雁字搦めにならないと不安で不安で仕方がない人は世の中にたくさんいるのかもしれません。

仮にそんな世の中になってしまっているとしたら…、そして社会全体が不安に包まれれば包まれるほど強力な「首輪+紐+杭」が求められるとしたら…、悲しいかな歴史は繰り返されつつあるのかもしれません…

そこを直していけるといいな… 自由闊達が尊ばれる世の中に向けて…