法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

文明の利器、文化の力

かつて、まだ元気だった頃のこと。たまの休日に街中を歩き回ることが貴重な息抜きになってました。普段は散歩圏内を2〜3時間ほどぐるっと歩いて回る程度でしたが、たまに気が向いた日には朝から晩まで10時間以上歩くこともありました。

長距離を歩くときは、朝のうちに家を出て、昼食も取らずにただひたすら歩いて、日が暮れる頃に近くの駅で電車に乗って帰宅してました。何キロくらい歩いてたのか正確にはわかりませんが、駅間距離で 20〜30km くらい(ときにはもっと)だったようです。(必ずしも線路に沿って歩いていた訳ではありませんので、あくまで目安です)

中途半端に休憩すると疲れが出るので、昼食は取りませんでした。立ち止まるのは、信号待ちと、トイレ休憩と、風景写真を撮るときくらいでした。当時は時速 5〜6km で歩いてましたが(マラソンコースを徒歩で7時間台の速度です)、街中では信号待ちが頻繁にあるので、平均速度はだいぶん遅かったのではないかと思います。

そうやって何時間も(ときには10時間以上も)かけて歩いた景色が、電車に乗ると、まるで走馬灯を見ているかのように「あれよあれよ」という間に巻き戻されて、30〜40分 もすれば最寄り駅に到着してしまうんですよね。。電車というのは本当に途轍もない文明の利器だなぁと、乗るたびに思ってました。

歩くからこそ見えること、電車だからこそできること。どちらもあって、どちらも大切なんだろうなぁと思います。


現代に生きる私たちにとって、自動車も鉄道もエアコンもパソコンも当たり前の存在です。電気も水道もガスもネットも当たり前です。便利になったからこそできるようになったことはたくさんあると思います。しかし一方で、便利になったからこそ見えなくなったこともたくさんあるのではないかと思います。

考えてみると、高度経済成長期の日本を支えた人たちは、暮らしが破壊されていく時代、食べ物にも日用品にも苦労した時代、暮らしがだんだんと豊かになっていく時代、公害に苦しんだ時代など、様々な時代を体験されてます。だからこそ見えること、感じることがあったのではないかと思います。感受性が豊かだったからこそ、高度経済成長期の日本を陰になり日向になり支えられたのかもしれません。

それは中国やベトナムでも同じかもしれません。苦難の時代、貧困の時代を知っているからこそ、人々の感受性が豊かになり、それが力強い経済発展の原動力となっているのかもしれません。

しかしだからと言って、「若い時の苦労は買ってでもせよ」と言うつもりはありません。感受性を豊かに育む方法は、伝統文化の中にたくさん残されていると思うからです。昔の人たちはそれを知っていたからこそ、暮らしの中に自然な形で取り入れて、世代を超えて伝えてきたのではないかと思います。

現代の日本人がその感覚を取り戻すことができれば、日本は再び豊かな国になるのではないかと思います。おそらくそのときは、高度経済成長期の日本とはまったく異なる方向の豊かさ、例えば自然の恵みや心の豊かさを重視する国になるのではないかと思います。(私の勝手な思い込みかもしれませんが…)


今日、久々にクルマに乗りました。荷物をたくさん積めて、速く移動できて、安心して遠くにも行けて。クルマって本当に途方もない文明の利器だなぁと思います。

最近毎日のように乗ってる電動アシスト自転車も本当は文明の利器のはずなのですが、、いつの間にか当たり前の存在になってしまって、乗り始めた頃の感動がだんだんと薄れてきています。心が貧しくてごめんなさい。「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 第5章第3節より)と自分を慰めてみる…(笑)