「何のために生きてるんだろう?」と思うことが、たまにあります。
私は療養とリハビリを中心とした暮らしをしています。傍から見ると遊んでばかりに見えると思いますし、実際そうなんだろうなと思います。そのお蔭で、発症当初と比べると本当にいろんなことができるようになりました。このポンコツな脳と体を、よくぞここまで使いこなしているものだと自分では思っています。
しかし、「だからどうした?」と言われると、まったくその通りでして、、世の中のお役に立てるレベルには程遠い状態ですし、アホなことばかり書き散らかしてますし、、マイペースな一人暮らし以上のことは当分できそうにありません…
生きてる価値を社会の中に見出そうと思うと、文字通り立つ瀬がない状況です。
では、生きてる価値をどこに見出すべきか? そもそも生きてる価値なんて見出す必要があるのか?
まさに「祖師西来意」なんだろうと思います。
生きてる価値があるんじゃなくて、生きてるんです。
生きることができてないから、生きてる価値を見つけたくなるのです。生きればいいのです。
そこを踏み外したときに浮かんでくる疑問が「何のために生きてるんだろう?」なんだと思います。心身を整え直す必要があることを教えてくれる貴重なサインなんだと思います。
※『無門関』第三十七則「如何なるか是れ祖師西来意」「庭前の柏樹子」