法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

先駆者

一般に先駆者と呼ばれる人は、どこに向かって進めばよいかまったく分からない状態から長期間にわたる試行錯誤を繰り返して、膨大な失敗を体験して、その人なりの理解体系、理論体系を生み出して、気がついたら世間とはまったく違う視点を持ち、世間とはまったく違うことをしていた、という感じではないかと思います(本人の視点からは)

また、最初のうちは周りの人たちみんなから反対されて、それが長らく続いて、ある程度の成果が出せるようになってからようやく少しずつ理解されるようになって、賛同者も現れて、教えを請う人も現れて…。しかしその頃には世間の常識がすっかり分からなくなっているので、当たり前のことと教えるべきことの区別がつかない。どんな風に教えるときちんと伝わるのかよく分からない。一方、世間から長らく冷遇されてきたので、ちょっと偏屈になっているかもしれない。そんな状態になりがちなのではないかと思います。

ですから先駆者から直接教えを請うときは、言葉の表面的な意味にとらわれたり、自分自身の観察力に頼り切ったりすると、先駆者の意図とはまったく異なる風に理解しかねないと思います。

世間の常識から長らく離れていた人が、長年の蓄積を言葉として表現するとき、ひとつひとつの言葉の意味するところは、世間一般の意味とは違っていると思います。また、ひとつひとつの動作のポイントも、世間一般の視点とは違っていると思います。しかし先駆者にはその違いが分からない。教えを請う人にもすぐには分からない。だから教えを請う側の探究力が非常に重要になってくると思います。

探究力の高い人が先駆者の成果を学び、確実に再現できるようになってから先駆者の理論や方法論を一般の人向けに上手に翻訳してくれたなら、先駆者の成果は生き残ると思います。そういう人が現れなければ、先駆者の長年に渡る努力は忘れられ、「特殊な天才」「特殊な事例」として片付けられてしまうかもしれません。


私は○○さんににお会いしたこともなければ、作られたものを手にしたこともありません。著作等を通して知るのみです。ですから、実際にどのような方なのか、どのような教え方をされているのかは、存じ上げません。

ただ、著作を拝見する限りは、特殊な言葉遣いをされているように思います。その言葉を受け取った人が○○さんの真意をどのくらい理解できるかは、受け取る人の力量次第ではないかと思います。条件が違う中で○○さんの成果をどこまで再現できるか、異なる条件下での工夫がどれだけできるか、それも受け取る人の力量次第だと思います。

そして、うまくいかなかったときに、○○さんのせいにするか、自分の失敗だと思うか。これも受け取る人の力量次第だと思います。


その方は、大変失礼ながら、○○さんの本来意図するところを受け取ることができてなかったのではないかと思います。それどころか、○○さんの意図するところを受け取ろうともしてない。ただ、○○さんの方法論を実践していると思い込んでいるだけの人ではないかと思いました。

そして、ビジネス・モデルとして「虎の威を借る狐」を採用されているのではないかと思いました。「○○さんから直接学んで作ってます」と言えば、興味を持って購入してくださる方がいらっしゃるかもしれません。「○○さん」の権威に弱い人が購入者であれば、文句も滅多に来ないのかもしれません。しかし、権威に頼ってばかりで内実が伴ってないようでは、商売としてはうまくいかない。ただただ威張っていることしかできない。威張るのをやめたら「虎の威を借る狐」というビジネス・モデルが成り立たない。ご本人も内心、相当苦しんでおられるのではないかと思いました。


合気道創始者植芝盛平翁は、教えるための稽古体系は作っているものの、ご本人としては合気道は技術ではないと思っておられたようです。ただ体の自然な動きにまかせるのみ。そうすれば相手が勝手に倒れている、と。

もしかしたら野球の長嶋茂雄さんも、体の自然な動きに任せておられたのかもしれません。

そういう方から教わるには、とてつもない吸収力、探究力、膨大な試行錯誤を厭わない努力が必要になると思います。

○○さんもひょっとしたらそういうタイプなのではないかと思ったりしています。だから、自力で再現できるだけの探究力がある人でないと、学べないのかもしれません。ご本人にお会いしたこともなければ、作られたものを手にしたこともないので、私の想像でしかありませんが…