(1)威張りと怒り
人間の感情表現の中で、「威張り(いばり)」と「怒り(いかり)」は特別な魔力を持っているように思います。上手に威張ったり、上手に怒ったりできる人は、信頼感を大いに高めると同時に、賛同者をたくさん集めることができるようです。お互いの自己否定の心が共鳴するのかもしれません。
残念ながら、どのようなときに威張りたくなるのか、分析したことはありません。しかしどのようなときに怒りの感情が湧き上がってくるかについては分析したことがあります。
これまでの経験から、怒りの感情が湧き上がってくるのは、(1)相手の中に自分の嫌いなところを見たとき、(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき、の2つのパターンがあるように思います。そのため、自己否定の心が強い人ほど、怒りは大きくて頻繁に起きるのではないかと思います。
(2)怒り1:自分の嫌いなところ
ひとつ目の「相手の中に自分の嫌いなところを見たとき」の怒りは、あまり素直ではありません。
自分の嫌いなところを見るのは、相手の言動の中かもしれませんし、表情の変化かもしれませんし、立ち振る舞いかもしれません。ふと相手の中に自分の嫌いなところを見てしまったとき、潜在意識から「怒り」の感情が浮かび上がってくるように思います。
ところが、潜在意識も自分の嫌いなところを直視したくありません。そこで、「怒り」の原因としてまったく別の理由をくっつけて、「あの人が○○したから腹が立った」などと因果関係が改竄された情報を顕在意識に届けるようです。
顕在意識としては、潜在意識から上がってくる情報がまさか改竄されているとは夢にも思わないので、「あの人が○○したから腹が立った」と信じてしまうようです。しかも、腹が立ったときは冷静ではいられないので、「あの人が○○した」の部分すら誤認識によるものかもしれません。
まとめると、「あの人は腹が立つ」としたら、その本当の理由は、その人の中に自分の嫌いなところをたくさん見るからだと思います。ところが、本当の理由を直視したくないので、まったく別のことを理由に腹を立てていると思い込んでいるようです。しかも、後付けの理由すら誤認識によるものかもしれません。
自己否定の心が強ければ強いほど、怒りの感情が頻繁に強力に湧き上がってきます。怒りが強力であればあるほど冷静さを失うと思うので、怒りの理由が誤認識に基づく可能性が高くなると思います。その結果、怒ってばかりの人が「あの人は腹が立つ」理由として挙げることは、ほんの少しの事実とたくさんの誤認識が合わさったものになっている可能性が高いのではないかと思います。
ところが、怒りながら話す人に説得力を感じる人は、事実をいくつか見つけただけで、きっと全体も事実なんだろうと思ってしまうのではないかと思います。そして、「あの人はとんでもなく悪い人だ」という噂が広まっていくのではないかと思います。
(3)怒り2:思い込みが攻撃された
ふたつ目の「自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」の怒りは、比較的単純です。
仮に、Aさんは自己否定の心があまりにも強くて心が潰れそうなので、心のバランスを取るために「私はズバ抜けて優秀で、慈愛にあふれ、誰からも尊敬される人物だ」と思い込もうとしているとします。思い込もうとしているだけで、事実とは異なるものとします。
例えば、Aさんのすぐそばにとても優秀な人たちがいるとします。彼らはAさんの理解できないことを簡単に理解でき、Aさんにはできないことを簡単にやってのけることができるとします。心のバランスを取るためには、Aさんは「あいつらがやってることはデタラメだ」と怒りの感情を噴火させるしかありませんでした。
あるいは、AさんはBさんと一緒に仕事をすることになりました。ところが、Aさんが足を引っ張って思ったように進みません。心のバランスを取るために、Aさんは「Bさんが足を引っ張っている」と怒りに震えるしかありませんでした。そうこうしているうちに、Bさんが離れ業をやってのけて、仕事がうまく行きました。心のバランスを取るために、Aさんは「これは私の成果だ、Bさんは足手まといだった」と怒り散らすしかありませんでした。
また、Aさんは自分のことをズバ抜けて優秀だと思っているので、自分に従順な人たちは物事がよくわかった人に見えて、高く評価したくなるようです。逆に、自分に従順でない人たちは頭の悪い人に見えて、否定的に評価したくなるようです。そして、自分の言う通りにしない人に対して怒りの感情が湧き上がってくるようです。本当はAさんが間違っているとしても、です。
こんな風に、Aさんの怒りは誤認識に基づくものばかりです。ところが、怒りながら話す人に説得力を感じる人は、Aさんの主張を信じてしまうようです。
(4)出世
このような訳で、自己否定の心が猛烈に強い人は、身の回りにはダメ人間だらけ、悪党だらけに見えてしまうようです。そして自分は正義のために戦っている孤高の闘士のように思っているようです。
怒りながら話す人に説得力を感じる人は、彼の話を真に受けるようです。しかし裏取りする能力のある人は、相手にしないようです。ここに大きな分かれ目があります。
もしも上司筋の中に、彼の話を真に受ける人がいたならば、彼は一気に出世します。そして、彼にダメ人間、悪党と評価された人たちは一気に冷遇されます。逆に、彼に従順な人たちが出世します。すなわち、一種の下剋上が起きて、天地がひっくり返ったような状態が現出します。その結果、実務能力が大きく減退して、たくさんの人生が破壊されてしまいます。
※学歴・職歴・出身地・境遇など、プライベートで近しい人は論理を超えた共感を示すことがあるので要注意です。
(5)台風の目
仮に、自己否定の心が猛烈に強い人が出世すると、喩えるなら彼は台風の目の中心になります。彼を支援する上司筋と、彼に従順な部下は台風の目の中にいることができて安泰です。しかし、彼からダメ人間・悪党とレッテルを貼られた人は、大変な暴風雨に見舞われることになります。彼の自己否定の心が強ければ強いほど、台風の中心気圧が低くなって、暴風雨圏の被害が大きくなります。そのため、立場によって彼に対する評価は大きく変わります。
暴風雨圏外にいる人たちの中には、彼の熱意にほだされて「彼こそは荒れた部署を立て直そうと孤軍奮闘する英雄だ」と思うかもしれません。逆に、猛烈な暴風雨に晒されている人たちの話を聞いて、「あそこはワンマンのブラック部署だ」と思うかもしれません。まさに芥川龍之介の短編小説『藪の中』もビックリな状況です。
このように中心人物に対する評価が極端に分かれて、人々の間に大きな断絶が発生して、お互いの話がまったく噛み合わなくなることが、この現象の特徴です。逆に言えば、大きな断絶が発生している組織には近付かない方が懸命だと思います。
(6)集団も操られている
経験的に、このようなパターンはあちこちで見られるように思います。
集団としての行動パターンが似ているということは、登場人物の行動パターンも似ている可能性が高いのではないかと思います。一人一人は自由意志で動いているようでいて、重要ポイントでは何かのアルゴリズムに従って行動しているかもしれません。言い換えるなら、マクロで見れば人間は何者かに操られているに等しいのかもしれません。
何に操られているかというと、おそらくは、煩悩とマインドセットではないかと思います。その大元には、心の大きな傷があるのではないかと思います。
ついつい怒ったり、ついつい怒りに共鳴したり、ついつい威張ったり、ついつい威張りに感服したり、ついつい主張に共鳴したり。それ以外にも様々な要素が働いて、集団としての行動パターンがあちらこちらで似てくるのではないかと思います。
(7)心の平和
もしかしたら、一人一人の人間だけでなく、人間の集団ですら、何者かに操られているのかもしれません。人類全体ですら、何者かに操られているのかもしれません。
根本で操っているのは、人間の心に潜むメカニズム(ソフトウェアに喩えるとOS)に取り憑く煩悩(ソフトウェアに喩えるとウイルス)ではないかと思います。一人一人の心の傷を癒して煩悩を無くさないと(ソフトウェアに喩えるとすべてのウイルスを退治しないと)、人類全体は平和にならないのではないかと思います。最近はそういう方向で考えてしまいます。
〔追記〕この世は摩訶不思議ワールドで、聖者には聖者の体験があり、普通人には普通人の体験があり、悪人には悪人の体験があるようです。私は悪人コースをたっぷりと堪能させていただいてます。
社会的にも物質的にも恵まれて自由を謳歌していると思ってい人ほど、本当は煩悩と世間の常識に心が乗っ取られて、がんじがらめの不自由な人生を送っているのかもしれません。しかし同じようなタイプの人はたくさんいるでしょうから、友達がたくさんいて楽しい人生かもしれません。
世間の常識を気にしない生き方をしている人の中に、本当の意味で自由に生きている人がいるのかもしれないなぁ…と思います。きっと、世間の常識と上手に付き合いながら(内心は苦労されているかもしれませんが)、世間の常識とはまったく異なる種類の楽しみを味わっておられるのではないかと思います。友達を作るのも上手かもしれませんね。