法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

脱皮する宗教

日本全国にはコンビニが約5万5千店舗あるそうです(2018年2月現在)。それに対して神社は約8万5千、お寺は約7万7千あるそうです(2016年12月31日現在)。コンビニの経営を金銭的に支えているのはお客さんですが、神社やお寺の維持管理を金銭的に支えているのは氏子さんや檀家さんが中心だと思います。

これだけたくさんの神社やお寺が存在しているのは、かつてはそれだけ重要な役割があったからではないかと思います。当時の生活習慣や社会常識の中に神社やお寺の存在が息づいていたのだと思います。だからこそ神社やお寺はそれぞれの地域で大切にされ、多額の寄進がなされ、全国津々浦々に立派な神社やお寺が残されているだと思います。

ところが現代の日本の生活習慣や社会常識の中から、神社やお寺の役割がどんどんと消えていっているように思います。そのため、かつては地域の人々の「こころね」や暮らしと一体化していたはずの神社やお寺との関係が、世代交代に連れて少しずつ形骸化していって、さらに世代交代が進んだ今日では事業者と顧客の関係に変わりつつあるのかもしれません。

その結果、神社やお寺の維持管理費用の不足分を、神職や住職が背負わざるを得なくなっているところが多いのではないかと思います。神職や住職が生活費や維持管理費を稼ぐために働きに出るようになった結果、肝心要の地域における存在感がさらに小さくなってしまい、負のスパイラルから抜け出せなくなっているところが多いのではないかと思います。

このままでは、やがては神社やお寺を維持することが難しくなり、次の世代に伝えることを諦めざるを得ない地域がたくさん出て来るかもしれません。末寺が減ってくると宗派の統廃合も必要になってくるかもしれません。いずれは神社やお寺や宗派を次世代に伝えたいという気持ちが『執着』と呼ばれるようになり、その『執着』を捨てざるを得ない日がやって来るかもしれません…

それを「宗教の消滅」と呼ぶ人がいるかもしれません。しかし私は「宗教の脱皮」だと思います。現代社会において役割を見失ってしまった宗教が、カサブタのように貼り付いている代々の遺産をすっかり脱ぎ捨てて、かつての純粋な姿に戻ろうとしている過程にあると思うからです。

かつての聖職者は、深遠なる智慧と、あふれる慈愛と、心に響く儀式作法を身につけていたからこそ尊ばれたのではないかと思います。本来、大伽藍も大組織も不要だと思います。これから少しずつ、かつての姿に戻って行くのではないかと思います。我々はその過程をリアルタイムで目撃しているのかもしれません。


《統計資料》