法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

できること・できないことが真逆に理解される理由について

(1)できること・できないこと

私は後遺症のため、できないことがいろいろあります。

もちろん、リハビリを通して、できるようになったこともたくさんあります。

しかし、どんなに工夫しても総合力では普通の人より遥かに劣るので、たくさんの人にご迷惑をおかけしながら暮らしています。


(2)できる範囲でお手伝い

そこで、できること・できないことを正直に申告して、できることの範囲でお手伝いさせてもらえれば、と思っていた時期もありました。

ところが不思議なことに、できると言ったことはさせてもらえない一方で、できないと言ったことはやらなくてはいけないような状況に追い込まれることがよくありました。

もちろん、できないことをやるのは、とても苦しいことです。どれだけ苦しいかを伝えようとすればするほど、ますますやらなくてはいけないように追い込まれてしまいます。なぜそのような状況に追い込まれるのか、当時はまったくわかりませんでした。

そのような経験を繰り返した結果、できるだけ世間から引きこもっているのが、お互いにとって一番幸せだ、という結論に至りました。


(3)その理由は3種類

それ以外の場面でも、「○○のような状況にあります」と正直に伝えようとすると、途中で別の話題に変えられたり、まったくのデタラメを言っているように取られたりすることがよくありました。

そう言った体験をいくつも繰り返した結果、そのように対応される理由が、最近になってようやく少しわかってきたように思います。

その理由は、大きく分けて3種類あるように思います。どれかひとつと言うよりも、この三つが組み合わせった結果のように思います。


(4)見上げたり、見下したり

ひとつには、相手から見て私は見下すべき立場にあるからです。(どのような人を見下すかは人それぞれだと思いますが、私は多くの人から見て見下すべき立場にあるようです)

多くの人は、見下すべき立場にある人に対しては、自分のマイナス・イメージを被せるようなのです。具体的にどのようなイメージを被せてくるかは人それぞれだと思いますが、結果的に、発言内容を否定的に捉えるようなのです。そのため、途中で話を打ち切ったり、まったくのデタラメを言っていると思ったりするようなのです。

(逆に、見上げるべき立場にある人に対しては、自分の理想像を被せるようです。具体的にどのようなイメージを被せるかは人それぞれだと思いますが、結果的に、実態を超えたすばらしい人物だと映るようです。)


(5)常識に合わない

ふたつめは、聞き手の常識に合わないからです。

多くの人は、体験や見聞を通して「病気の人はこのような状態にある」というイメージがあるようなのです。そして、病気とか後遺症とか聞いた瞬間に、そのイメージを当てはめようとするようなのです。

ところが、私の後遺症は多くの人のイメージには当てはまらないようなのです。そこで、「この人の言っていることはデタラメだ」と思って、自分のイメージで対処しようとするようなのです。すなわち、相手の言うことよりも自分の中のイメージを優先するようなのです。

その結果、できると言ったことは「遠慮しているに違いない」と思ったり、できないと言ったことは「デタラメなことを言っているに違いない」と思ったりするようなのです。


(6)理解モデルに合わない

みっつめは、相手の理解モデルに合わないからです。

どうやら多くの人は、権威のある情報にしか耳を貸したくないようなのです。そのため、私が「○○はできますが、××はできません」と言ったとしても、右の耳から左の耳に抜けてしまうようなのです。それどころか、どうせデタラメだろうと思われてしまうようなのです。

(相手が権威を感じるように、「○○病院の医師によると云々」という言い方をすれば、耳を貸してもらえるのかもしれません)


(7)おわりに

それぞれの理由について、そのような理解に至った理由があるのですが、うまく説明できるかどうかはわかりません。長くなったので、今日のところはこの辺で…