法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

アタマ派とハラ派と礎石

(1)思い込み

これまで何度も書いたように、怒りの感情が湧き上がってくるのは、(1)相手の中に自分の嫌いなところを見たとき、(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき、の2つのパターンがあるように思います。

このうちの「思い込み(妄想世界)」の部分は、元々は「妄想」を意図していたように記憶しています。たしか、事実関係を無視して自分の都合に合わせて作ったストーリーのことでした。しかし、ストレートに「妄想」と書くことがためらわれて、少し曖昧にして「思い込み(妄想世界)」としたのだと思います。

そのルールを発見してからも、過去の様々な体験の記憶に飛び込んでは、心の動きを眺めてきました。そして、どうやら(2)の適用可能範囲は当初意図した範囲よりも広いようだ、と思うようになりました。しかし、具体的にどのくらい広いのかは、今はまだよくわかりません…

適用可能範囲がはっきりすると、「思い込み(妄想世界)」の部分をわかりやすい表現に書き換えることができるのではないかと思います。


(2)アタマとハラ

そこで、過去の様々な体験の記憶をたどりながら、「思い込み(妄想世界)」の部分に該当するものとしないものを、適切に区別できる視点を探してみました。

昨夜から今まで探した中で一番わかりやすいと思ったのは、「アタマ」対「ハラ」という視点です。アタマの中だけで考えたことは前述の(2)の適用範囲のように思いますが、腑に落ちたこと(ハラに染み入ったこと)は適用外のように思います。


(3)礎石

建築物に喩えるなら、自分自身の中に礎石(基礎)があるかどうか、かもしれません。アタマの中だけで考えたことには礎石がないので心理的にグラつきやすく、腑に落ちたことは礎石がしっかりしているので心理的にグラつかない。そのような違いがあるのではないかと思います。

礎石がない状態で誤りを指摘されると、心理的にグラついて怒りの感情が湧き上がってしまうのではないかと思います。グラつきが大きければ大きいほど、怒りの感情が強くなってしまうのではないかと思います。

一方で、礎石がある状態で誤りを指摘れさも、心理的にはまったくグラつくことがなく、むしろ好奇心を刺激されてワクワクするのではないかと思います。そしてますます成長していくのではないかと思います。

また、礎石がない状態で想定外の事態に遭遇すると、心理的にグラついて不安に駆られるのではないかと思います。一方で、礎石がある状態で想定外の事態に遭遇しても、心理的にグラつくことがなく、むしろ好奇心を刺激されてワクワクするのではないかと思います。

自分自身の中に礎石があるかどうかで、こんな風に、日々の心理状態が大きく異なるのではないかと思います。


(4)成長

逆に考えると、自分自身の中に礎石のない人は、いつ心理的にグラつくかわかりません。そこで日頃から、一所懸命にアタマで勉強しているのかもしれません。しかし、いくらアタマで勉強しても礎石はできないので、いつまでたっても不安は解消されないのではないかと思います。

一方で、自分自身の中に礎石のある人は、心理的にグラつくことがないので、何があってもワクワクするのではないかと思います。そして、様々な体験を通してたくさんのことが腑に落ちて、ますます成長していくのではないかと思います。

自分自身の中に礎石があるかどうかで、こんな風に、日々の成長も大きく異なるのではないかと思います。


(5)アタマ派とハラ派

このように、アタマ派とハラ派では、日々の心理状態も、日々の成長も、大きく異なるのではないかと思います。そして、人生が全然違って見えているのではないかと思います。

そのため、両者の生き方の間には大きな谷間があって、お互いに理解し難い存在に見えているかもしれません。

アタマ派の人がハラ派の人の言動を見ると、しょっちゅう怒りの感情が湧き上がってくる可能性があります。おそらく常識にあまり従わず、空気もあまり読まないので、前述の「(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」に該当する言動が頻繁に見られると思うからです。

逆に、ハラ派の人がアタマ派の人の言動を見ると、好奇心いっぱいで言動パターンを探求したくなるかもしれません。しかし、その過程で怒り散らす人に多数遭遇するうちに、精神的に折れてオドオドしながら生きるようになったり、面倒臭くなって世間と距離を置いて生きるようになるかもしれません。

おそらく、アタマ派からハラ派へ、もしくはハラ派からアタマ派への転換は、簡単なことではないと思います。(しかし、何かをきっかけにスパッと変わることはあるかもしれません)

両者の関係は、「水と油」とまではいかないものの…、ぎこちなくなりがちではないかと思います。喩えるなら界面活性剤のように、水と油を上手につなぐ仕組み(もしくは人物)が必要かもしれません。


(6)アタマ派と現実

以上を踏まえて、仮に「(2)自分の思い込み(妄想世界)が攻撃されたと思ったとき」を書き換えるとするならば、「(2)アタマ派の人が、アタマの中にあることと異なる現実を見たとき」かもしれません。

しかし、これでは却ってわかりにくくなると思うので、適切な表現はまた改めて考えようと思います。