法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

忿怒の明王

(1)「怒り」の感情の発生原因

「怒り」の感情はどのような場合に発生するのでしょうか。

これまでに見つけた範囲では、大きく分けて2種類あるように思います。ひとつは、相手の中に自分の嫌なところを見たとき。もうひとつは、自分の思い込みが作った世界観が攻撃されたと感じたとき。

いずれも、「怒り」の感情の本当の原因は自分の中にあります。したがって、自分のことを嫌だと言う気持ちを消していったり、自分の思い込み世界観を消していったりしているうちに、「怒り」の感情が弱まったり、起きにくくなったりします。

しかし、いずれの場合も「怒り」の感情のきっかけとなるのは目の前の誰かの言動です。そこで、本当の原因を自分の中に見つけようとする代わりに、目の前に誰かに「怒り」の感情の原因をなすりつけてしまうこと、すなわち「責任転嫁」が現代の常識として広く行われているように思います。


(2)因・縁・果

仏教の「因・縁・果」の用語を借りてこの現象を説明するならば、「怒り」の感情という『果』の本当の原因は自分の中にあるにも関わらず、自分の中にある『因』をなかったことにして、代わりに目の前の『縁』に責任転嫁することで、当面の心のバランスを取ったつもりになることが広く行われてと言えるのではないかと思います。

本当の原因である『因』は手付かずなので、様々な『縁』が現れるたびに、「怒り」の感情という『果』が際限なく湧き上がってしまうのではないかと思います。仮に『因』を消すことができれば、「怒り」の感情という『果』は現れなくなるのではないかと思います。


(3)如来・菩薩・明王

密教では、如来は相手に合わせて如来・菩薩・明王のいずれかの姿を取るとされているそうです(三輪身)。そして、明王は忿怒の姿を取っているそうです。なぜ忿怒の姿を取るのか長らくわからないでいました。

しかし明王の仏像を見ているうちに、「怒り」の感情の原因と組み合わせて考えると、なにかヒントが見つかるのではないかと思うようになりました。


(4)明王の意図

いまは次のように考えています。

「怒り」の感情の源は、意識の遥か奥底にあるのではないか。そして、自分の中の心傷や煩悩に意識の焦点が向かったときに、ビーム光線のように、そこをはっきりと照らし出してくれるのではないか。そうやって、消し去るべき『因』がどこにあるのか教えてくれているのではないか。

ところが、意識の浅いところでは、自分の中の心傷や煩悩を直視したくないのではないか。そこで、照らし出された『因』を秘匿して、代わりに目の前の誰かに責任転嫁することで心のバランスを取ろうとしているのではないか。顕在意識には、責任転嫁の結果しか知らされないのではないか。

したがって、「怒り」の感情が湧き上がってきたときは、責任転嫁する前の本来の姿に復元することが重要ではないか。それが意識の遥か奥底に潜む明王の意図を理解することにつながるのではないか。

そんな仮説を抱くようになりました。この仮説が正しいかどうかはわかりません。しかしこのように考えると、明王の忿怒の意図を理解しやすくなるように思います。