(1)人間だけが間違える
人間は間違えてばかりなので、生きる上でのモノサシ(判断基準)を人間以外に置きたいと思っています。ところが人間にはヨシアシを判断する能力はないので、人間以外は間違えないことを大原則にしたいと思っています。すなわち、、
- 身体は間違えない。
- 大自然は間違えない。
- 大宇宙は間違えない。
この原則に従うと、万一、人間の目には間違っているように見えたり、理不尽に見えたりする現象があるとしたら、それは人間の理解が不足しているから(誤解しているから)ということになります。すなわち、正しい視点を見つけたり、視野を十分に広く取ったりできれば、本来の姿が理解できるようになるという考え方です(ただし、人間の理解力・観察力を超えた現象の方が圧倒的に多いと思います)。
このような考え方をベースに、身体・大自然・大宇宙の法則を理解していきたいと思っています。
※なお、ここでの「大宇宙」は森羅万象を指すものとします。
(2)人間も実は間違えない
こんな風に、大宇宙において間違える可能性があるのは人間だけである、という前提からスタートしようと考えました。
ところが、人間は大宇宙の一部です。前節の「大宇宙は間違えない」という原則に照らし合わせると、「人間は間違えない」という結論を得ることになります。
したがって、人間が間違っているように見えたり、理不尽に見えたりする現象があるとしたら、それは人間自身の理解が不足しているから(誤解しているから)と考えるしかなくなります。
すなわち、誤解こそが「苦しみ」の根本原因かもしれません。正しい視点を得て、正しく理解できるようになると、「苦しみ」は消えてなくなるのかもしれません。
大宇宙のどこにも間違いはないと思うと、生きるのが楽になるのではないかと思います。
(3)自転車の練習
自転車に乗ることのできる人は多いのではないかと思います。
しかし、自転車に初めて乗った瞬間から完璧に乗りこなせた人はいないと思います。最初のうちは思うように運転できなくても、練習を繰り返すうちに上手になって、やがて自由自在に乗りこなせるようになっていきます。初心者のうちは無茶な運転をしたくなることがあるかもしれませんが、やがて自転車は大切な道具として生活に溶け込んでいくのではないかと思います。そして自転車マナーを磨いていくことになると思います。
ここで話を戻して、人間の生き方を自転車の練習で喩えてみると、、人間が間違っているように見えるとしたら、それは自転車の練習中に転んだり、ぶつかりあったりしているようなものかもしれません。間違っているのではなく、練習過程の姿なのかもしれません。
※自転車の比喩が適切かどうかは現時点ではわかりませんが…
(4)八つ当たりとスイスイ
狭い狭い公園に大勢の人が集まって、てんでんばらばらに自転車の練習をしている状態を想像してみてください。公園の中を見回してみると、右には曲がれるけど左には曲がれない人もいれば、スピードは出せるけど止まれない人もいれば、転んでばかりで立ち尽くしている人もいれば… あちらこちらから、「左に曲がれー」「危ない、止まれー」「そこをどけー」と怒号が聞こえてきそうです…
そんな狭い公園の中をスイスイと運転している人は、傍目には聖人君子に見えるかもしれません。頭で考えながらスイスイ運転している人は哲人、何も考えないで(無為自然で)スイスイ運転している人は覚者と呼ばれるのではないかと思います。
人間社会はそんな状態にあるのではないかと思います。今は練習中の人たち同士で八つ当たりしあっている最中ですが、やがてみんながスイスイ走れるようになることと思います。したがって、八つ当たりしているヒマがあったら、スイスイ走れるように根気よく練習を続けて、早くお手本になった方が建設的ではないかと思います。
(5)達人の卵
こんな風に狭い狭い公園で芋洗い状態で練習した方が、長い目で見ると早く確実に上達して、やがてハイレベルな乗り手になっていくのかもしれません。もしかしたら私たちは、地球という全寮制の学校で英才教育を受けている「達人の卵」なのかもしれません。
〔追記〕交通量が多いのに信号機がなくても平気な交差点の映像です(エチオピアの首都、アディス・アベバ)