法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

子どもの人を見る目

(1)未就学

何年か前、未就学の子どもたちと遊ぶ機会が何度かありました。

当時の私は今ほど回復してなくて、体を動かすにしても、じっとしてるか、ゆったり歩くかが精一杯でした。脳もできるだけ思考せず、言葉も使わないでいるのが一番楽でした。それだけでは周りの人に心配をおかけするかもしれないので、人前では一所懸命に歩いて、時々ですが言葉を一所懸命に聞いたり発したりしてました。

未就学の子どもたちは、私の状態をすぐに見抜いて、私があまり動かなくてもよいように、あまり考えなくてもよいように、ちょうどよい遊び方をしてくれました。私が動く代わりに、子どもたちが私の周りを走り回ったり、動き回ったりしてくれました。ルールも言葉もない遊びなので、考える必要もありませんでした。私はじっと立ったまま、時々子どもたちと手をつなぐだけで、一緒に遊ぶことができました。とても楽しい時間を過ごすことができました。

ところが親世代には、違ったように見えたようです。子どもたちに遊びをやめさせて、お詫びの言葉をかけてくださいました。私が子どもたちとの遊びは楽しかったと言っても信じてもらえず、気を使って嘘を言っていると思われたようでした。

子どもが人を見る目と、大人が人を見る目は、随分と違うことを知りました。


(2)観察力

未就学の子どもたちは、年齢がちょっと違っただけでできること・できないことが全然違っていたり、会うたびにできることが増えていったりするので、何ができて何ができないかを見抜く目を持っているのではないかと思います。自分や小さな友達があれこれできなかった頃のことを覚えているので、どんな風に接すればよいかすぐにわかるのではないかと思います。

ところが大人は、自分の目や耳よりも常識を優先するのではないかと思います。そして頭の中で「きっとこうに違いない」「きっとああに違いない」と想像して、想像に従って行動することが道徳的とされているのかもしれません。

自分の観察力に従って行動するか、自分の想像力に従って行動するかが、未就学児童と大人の違いかもしれません。


(3)直接体験

先日、「虫の視点」のものの見方を私なりに想像して、次のように書きました。(見当外れでしたら誠に申し訳ありません)

  1. 身の回りのことは、直接体験を大切にします。
  2. 縁遠いことは、印象から想像を膨らませます。
  3. 遥か彼方のことは、見上げるのみです。

未就学児童は、「1.直接体験」の範囲がとても広く、「2.想像」の範囲はとても狭いのではないかと思います。ところが大人になると逆に、「1.直接体験」の範囲は随分と狭くなって、「2.想像」の範囲が随分と広くなるのではないかと思います。

喩えるなら未就学児童は、魚眼レンズのように直接体験が拡大されてよく見えるのかもしれません。それに対して大人は、絵画の遠近法のように直接体験はあまり見えない代わりに遠近を見通せる(=想像できる)のかもしれません。

もしかしたら学校教育を通して、子どもたちの中で何かが大きく変わって、大人の見方へと変わっていくのかもしれません。


(4)生きる力

映画『みんなの学校』で紹介された大空小学校は、特別支援の対象となる児童も含めて、すべての子どもたちが同じ教室で学んでいるそうです。子どもを大空小学校に通わせるために、校区内に引っ越してくる家族も多いそうです。(ちなみに大阪市住吉区JR我孫子町駅そばの公立小学校です)

大空小学校の初代校長・木村泰子さんは、退職後は講演活動で全国各地を飛び回っているそうです(この1年半ほどはオンラインがメインかもしれません)。著書を何冊も出していて、紹介記事も多数あります。

いくつか読んだ著書やネット記事の内容を思い出すと、勝手解釈ですが、前述の「1.直接体験」に当たることを重視されているのではないかと思います。子どもたちは、人を見る目、ものを見る目、自分を見る目を養うことで、生きる力を身に付けているのではないかと思います。子どもたちの学力も高いそうです。


(5)常識力

ところが大人の世界では、常識力や想像力が尊ばれます。そのため、一人一人が常識に従って暮らしていることが社会の前提となっていて、お互いに常識に基づいて想像力を働かせ合うことが人間関係の前提となっているようです。常識に従っていると安心で、常識から外れると不安になるようです。

しかしなかには、観察力を失わないまま大人になった人もいるかもしれません。そして社会の片隅で、困っている人たちを助けながら暮らしているかもしれません。とてもすてきな方だろうなと思います。


(6)いまここ

私は自転車でよく出かけます。

自転車に乗っているときの思考モードは、気分によって2種類あるようです。

  1. ひとつは、「雑念でいっぱい」モードです。運転しながら、あれこれどうでもいいことを考えているようです。何を考えていたのか、後からほとんど思い出せません。体は自転車を運転していても、心はどこかアサッテの世界にいるようです。

  2. もうひとつは、「おもいがない」モードです。からだの動きや、自転車の音や振動、周囲の様子をただ見たり聞いたり感じたりしているだけの観察者モードです。観察力が高いからか、まわりのものがはっきりくっきり、いきいきして見えます。体は自転車を運転しいて、心はただ眺めています。

たいがい「雑念でいっぱい」モードですが、たまに「おもいがない」モードになります。

わずかな経験からの空想ですが、「いまここ」という言葉が表していることは、もしかしたら「おもいがない」モードをより深めたところにあるのかなぁと思ったりしています。

未就学児童の観察力は「いまここ」につながっているのかもしれません。私も幼い頃の視点を多少なりとも思い出せたなら、「いまここ」に少しは近付けるかしら…

一遍上人の和歌「身をすつる すつる心を すてつれば おもいなき世に すみそめの袖」の「おもいなき世」は、もしかしたら「いまここ」のことかもしれないなぁと思ったりしています。