法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

豚に真珠、猫に小判

(1)人物評価と想像力

私は複雑なことを考えられなくなって久しいので昔のことは覚えてないのですが…

もしかしたら多くの人は、周りの人や有名な人に対して、「この人は○○な人だ」「あの人は□□な人だ」などと一人一人に評価をくだしておかないと落ち着かないのでしょうか。

その際、間違いのないようにと慎重に調査する代わりに、想像を逞しくして「この人はきっと○○な人だ」「あの人はきっと□□な人だ」と結論づけているのでしょうか。特に初対面の人や謎めいた人に対しては、想像力をフル回転させることが多いのでしょうか。

仮に、人物評価において想像力の役割が非常に大きいのであれば、他人を評価しているつもりになっているだけで、実際にはその人とは関係なく、評価者の人間観がそのまま現れているだけの可能性が高いのではないかと思います。

すなわち、第一印象を元に人物像を想像して、その内容に合致する事実だけを取捨選択して、そこからさらに想像を膨らませて、もっともらしい結論を作り上げているのではないかと思います。同様に噂話が好きな人も、気が合う人どうしで想像力を競い合いながら、その場にはいない人の人物像を創り上げているのではないかと思います。

言い換えると、人物評価の正確さは二の次で、しっくりくる人物評価が手元にあることが重要なのではないかと思います。もしかしたら、あらゆる人物・事柄を想像力の延長線上に配置しておかないと、不安で不安で仕方がないのかもしれません。心の中の秩序を壊さないことが重要なのかもしれません。


(2)人物評価とコミュニティ

もしも万一、前述のような形で人物評価が創り上げられているのであれば、そのようなコミュニティで共有されている人物評価は、実態とは大きくかけ離れている可能性が高いのではないかと思います。人物の評価というよりも、構成員の心の鏡だと考えた方がよいのではないかと思います。

そのようなコミュニティにおいては、一旦コミュニティ内で人物評価が共有・承認されると、その内容を変更することはとても難しくなるのではないかと思います。事実よりもコミュニティ内の「空気」が重視されると思うからです。

仮にAさんの人物評価の結果が○○だとすると、それ以降のAさんのあらゆる言動は「Aさんは○○だ」という色眼鏡を通して見られることになります。プラスな評価が共有されていれば何をやっても実態よりも高く評価されますが、マイナスな評価が共有されていれば何をやっても実態よりも低く評価されると思います。


(3)正のスパイラル

ところで、もしもコミュニティの構成員が愛にあふれた人ばかりであれば、一人一人の持ち味を見つけて高く評価するのではないかと思います。そして、お互いに持ち味を上手に引き出したり上手に活かしたりする方法を工夫しあうのではないかと思います。お互いを伸ばしあって、よい結果が生まれて、よい評判が広まっていくのではないかと思います。


(4)負のスパイラル

しかし、もしもコミュニティの構成員が自己否定の心が強い人ばかりであれば、他者に対する評価は実態よりも遥かに低くなる可能性がとても高いと思います。そうやって一旦低い評価を受けた人は、あらゆる言動は非常に低く評価され、何を言っても何をやってもまともに取り合ってもらえないどころか、頑張れば頑張るほど新たな誤解を生んで、ますます評価を下げていくのではないかと思います。その結果ストレスがたまって、悪い面ばかりが出るようになってしまうかもしれません。

したがって、自己否定の心の強いコミュニティにうっかり近付くと、本来の能力に関係なく、非常に低く評価されてしまう可能性が高いのではないかと思います。喩えるなら「豚に真珠」「猫に小判」な状態になりやすいのではないかと思います。そればかりか、妄想に基づく悪い噂が広くばら撒かれて、悪名高い人物として世間から爪弾きにされてしまう可能性すらあると思います。その結果、強烈なストレスから本当に悪い面ばかりが出るようになってしまうかもしれません。


(5)リスペクト

現代日本においては、自己否定の心の強いコミュニティはとても多いのではないかと思います。そのようなコミュニティで高く評価される可能性があるのは、空威張りが得意な人だけかもしれません(自己否定の心の強い人たちは空威張り合戦ばかりしているように思うので…)。現代日本で出世しようと思ったら、実務能力を高めるよりも、空威張りの腕を上げた方が効率的かもしれません。

しかしこれはあまり良い傾向ではないように思います。したがって、現代日本に住む人々の自己否定の心を弱めていくことが重要ではないかと思います。そして一人一人を大切にする社会になっていくとよいなと思います。誰もがお互いに敬意を持って接し合う社会になるとよいなと思います。