法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

古谷経衡(著)「毒親と絶縁する」

古谷経衡(著)「毒親と絶縁する」を読みました。

両親から受けた虐待から絶縁までの過程が、著者の視点から書かれてました。

著者は学歴を至上と考える両親から激しい教育虐待を受けて、中学3年生のときに平手打ちによる鼓膜破裂を経験し、高校1年生の冬にパニック障害を発症するに至ったそうです。幸い、大学入学と同時に両親の元を離れてから、症状がしばらく現れなくなったそうです。ところが、仕事が軌道に乗って順調だった20代後半に再発してしまったそうです。その後、精神科医による薬物治療を受け、症状を抑えているそうです。現在、精神障害三級を認定されているそうです。

筆者は30代前半で親が付けた名前を捨てて現在の名前へと正式に改名し、30代後半の現在は両親と絶縁状態にあるそうです。

以下は感想文というよりも空想文です。


(1)思い出したくないこと

この本の前半には、両親から受けた虐待とパニック障害の苦しみが書かれてました。

しかし本当に辛かったこと、苦しかったことを文章にする作業は、どんなに時間が経ったとしても、精神的に途轍もなく困難なことではないかと思います。ですから、この本に書かれているのは全体像のほんの一部ではないかと思います。しかも表面的にうっすらとなぞっただけではないかと思います。苦しみの核心部分は曖昧にぼかしたり、省略したりしているのではないかと思います。本に書くこと自体が、筆者にとってはとても苦しい作業だったのではないかと思います。

また、周囲の人たちの無理解からくる言動にも、実際には相当苦しめられたのではないかと思います。正直に打ち明けても、理解されないばかりか、軽蔑されたり罵倒されたりしたかもしれません。あるいは、理解したフリだけして、肝心なときに梯子を外す人もいたかもしれません。中には、何度も何度もわざと発症に追い込んで、苦しんでいる様子を眺めて喜んでいる人もいたかもしれません。仮にそのような人たちがいたとしたら、悪魔の化身に見えたのではないかと思います。

そして、時とともに誤解に基づく噂が広まって、理由もわからず孤立して、馬鹿にされて、心が潰れてしまいそうな日々を送ったかもしれません。多感な時期の苦しみは、心に大きな傷を残したのではないかと思います。まさに地獄のような日々だったのではないかと思います。おそらく、数少ない理解者の存在は、文字通り「地獄に仏」と映ったのではないかと思います。

もしもこの本を読んで「この程度のことでなぜ…」「あまりに身勝手だ…」という感想を抱かれたとしたら、逆に「このような結果に至ったくらいだから、この本には書かれていない途轍もなく大変なことが、本当はもっとたくさんたくさんあったんだろうな…」という方向へと読み方を変える必要があると思います。文章に書き起こせたことよりも、あまりに苦しくて文章にはできなかったことの方が、圧倒的に多いと思うからです。書き起こせなかったことの中にこそ、本当の苦しみがあると思うからです。


(2)先祖から受け継いだもの

これはまったくの想像ですが、ご両親も相当に大変な人生を歩まれたのではないかと思います。耐えて耐えて耐えて、心の中にたくさんのものを溜め込んでしまったのではないかと思います。そして苦しくて苦しくて苦しくて、とうとう耐えきれなくなって無意識のうちに苦しみの捌け口に選んでしまったのが、ご自身の分身である実子だったのではないかと思います。

しかし、人生経験をある程度積んだ親世代ですら耐えきれないくらいに溜め込んだものを、少年に対してはき出してしまっては、子が耐えきれるはずがありません。仮に十分に手加減したつもりだったとしても、あるいは何気ない言動だったとしてもです。少年にとって親は特別な存在なのでなおさらだと思います。子が精神的に不安定になってしまうのは避け難いことだと思います。

親にとっても、子は特別な存在ではないかと思います。一心同体と感じるほどにかけがえのない大切な存在であると同時に、逆に一心同体だからこそ、強烈な「自己否定」の心がそのまま強烈な「実子否定」の心へと地続きで転換する可能性も高いのではないかと思います。我が子のためなら何でもできると思うと同時に、我が子のためなら「親が考える良いこと」を手加減なく行うべきだと思ってしまうのかもしれません。

そうやって、強烈な自己否定の心が親から子へ、子から孫へと伝えられているのではないかと思います。親子関係のあり方も同時に受け継がれるのではないかと思います。子が受け継いだ苦しみは、実は先祖代々受け継がれてきた積年の苦しみかもしれません。


(3)ストーリー・テラー

世の中には、話をちょっと聞いただけですべてを理解したつもりになる人が時々いらっしゃいます。少しの情報から巧みにストーリーを組み立て、それこそが真実だと思い込むことのできる人たちです。

そしてそれ以降は、どんな話をしても、そのストーリーの枠組みの中で聞いてしまうようです。そのストーリーから外れると(妄想ストーリーなので大概ハズれます)、「嘘を言ってるんだろう」「自信を失くしてるんだろう」「遠慮してるんだろう」などと空想して、聞き捨てたり、時には怒鳴り散らしたり暴れたりして、その妄想ストーリーを頑迷に守ろうとします。そして、「本当は○○に違いない」などと話をどんどん膨らませていきます。

さらには、「俺様が助けてやる」と強引に偽善ゴッコのストーリーを作り上げて、当人には無断であちこちに言いふらして回る人もいます。その妄想ストーリーの全貌が当人の耳に入ることはありません。そのため、知らないうちに「俺様」はお節介焼きの親切な人としての評判を高め、当人はダメ人間の問題人物として理由がわからないまま周りの人から軽蔑されながら生きていかねばならなくなります。

これが赤の他人であれば、コミュニティから逃げ出すという選択肢が残されています。しかし少年期に親から妄想ストーリーを被せられてしまうと、子は逃げようがありません。

もしかしたら、両親の間で作られたストーリーでは「親心あふれる両親と、聞き分けのない息子」という構図だったのかもしれません。一方、息子から見ると「理不尽なことばかり主張して虐待を繰り返す両親と、生き地獄に苦しむ息子」という構図だったのではないかと思います。そして、同じ家で暮らしながら、親子でまったく異なるストーリーを生きていたのではないかと思います。両者の間に立ってお互いの話を通訳してくれる信頼できる第三者が必要な状況だったのではないかと思います。


(4)自他の区別

著者の親世代は身の不幸の原因を「学歴」に求める人が多かったのではないかと思います。今更手の届かないことに原因を求めることで一種の諦観を得ていたのかもしれません。

そして心の中に「学歴」による厳格な序列を描いて、上位者の前では思い切り謙る(へりくだる)代わりに、下位者を思い切り見下すことで、何とか心のバランスを取っていたのかもしれません。

さらには心の中の下克上を夢見て、我が子に高い学歴を得させて、我が子より学歴の低い人たちを心の中で見下すことを計画していたのかもしれません。我が子に高い学歴を強いることは、我が子のためと言いながらも、第一には親のためだったのかもしれません。親より学歴の高い人たちを見返すための長期計画だったのかもしれません。その実現のために、苦労を重ねて大変な投資されたのかもしれません。「子のため」というのは正当化のための後付けの理由で、心の中の位置付けは本当は小さかったのかもしれません。

しかし、子には子の夢や希望があります。年齢を重ねるごとに、親の夢や希望への興味は薄れて、子の世界に没頭するようになるのではないかと思います。

通常であれば、親もいつかは子の希望を受け入れざるを得なくなることと思います。しかし、親が子と一心同体であるという気持ちが強い場合、「親の夢は子の夢だ」「親の夢を叶えることこそが子の幸せだ」という気持ちから離れられなくて、あらゆる手段を尽くして親の夢を実現させようとするのかもしれません。そして「それこそが子の幸せだ、子の幸せのためなら何でもするぞ」と思ってしまうのかもしれません。そして悲劇が生まれてしまうのかもしれません。

言い換えるなら、自他の区別が上手にできない人、特に親子関係における自他の区別が上手にできない人に独特の苦しみかもしれません。もしかしたら、自他の区別を自分の都合に合わせて使い分ける人の苦しみかもしれません。

漫画『巨人の星』の星一徹のように実子(星飛雄馬)に夢を託すのではなく、ご自身の強烈な自己否定の心を和らげる方向に気持ちが向いていれば、ご家族は違う人生を歩んでいたかもしれません。


(5)支配と被支配

この本の後半には大学入学から現在までのことが書かれていました。

近代史と親子関係の共通点の記述は興味深く読みました。政治の舞台においても、歴史解釈においても、自他の区別を適切に行い、あらゆる立場を尊重しながら政策や歴史を検討できる能力はとても重要だと思いました。

絶縁に至る過程については、親子の最後のセッションですので、良し悪しの判断も、善悪の判断も、外野からはしたくありません。双方とも、それぞれの立場でのベストを尽くされたことと思います。


(6)苦しみの連鎖を断つ

子は親のコピーだと思います。

クルマに喩えるなら、親子は同じ型式で、色や内装が違うだけではないかと思います。どんなに頑張って反発しても、色違いやオプション違いが精一杯で、土台となる車体は一緒のままではないかと思います。

ですから、親が強烈な自己否定の心を持っていたとしたら、子にも伝わっているのではないかと思います。子を通して孫にも伝わっているのではないかと思います。そうやって、時代を越えて先祖代々の呪縛が子々孫々へと伝わり、同じ家系の人たちの苦しみの原因のひとつとなっているのではないかと思います。今を生きる人が、その苦しみを断つことはとても重要なことだと思います。

いつの日か、著者とご家族の苦しみが和らぎますよう、心からお祈り申し上げます。