エレクトリック・トランペットの即興演奏者として世界各地で活動されていた近藤等則さんが、先月亡くなられたそうです。1ヶ月遅れで訃報を聞いて、近藤等則(著)『いのちは即興だ』を本棚から引っ張り出して十数年ぶりに読みました。大断捨離を経ても手放す気になれなかった一冊です。
本当は読後の感想文を書きたかったのですが、どうにもこうにも文章になりません。そこで本を読みながら書き写したメモを投稿します。
とても興味深い本でした。有限の地球で無限の宇宙を表現された方ではないかと思いました。
近藤等則(著)『いのちは即興だ』より
第1章 地球を吹く
- 死というのは何かと言ったら、何兆個もの細胞の共振・共鳴が終わるときが死で、だから、都会でどんな生活をしていても、生きているということは、実は、一つひとつの細胞のレベルまで、宇宙と共鳴しているんだと思いますよ。(p.23)
第2章 危険な道を選んできた
- なぜかというと、ミュージシャンの道を選んだほうが、死ぬときに笑いながら死ねると感じたからです。本当に単純に、よくわからないけれど。(中略)それで一瞬にして、僕はミュージシャンになろうと決めたんです。(p.36)
第3章 いのちが求めるもの
- 自分のいのちに一日でも、一回でも、ウソをついたらやばいな、というのがあって。(p.75)
第4章 無意識を解放する
- それで、今の人間社会が行き詰まっている原因の一つは何かというと、僕が思うには単純で、本当の意味での“地球との共振・共鳴感覚”というものを失ってしまったからではないかと思うんですね。(p.88)
第5章 即興演奏の極意
- Aといういのちと、Bといういのちと、Cといういのちが勝手に生きている。もう関係なく自由にやっている。でも、三つの音がバラバラになっているのを全部把握できる耳とクリアーな近くがあれば、そのほうがはるかに美しいアンサンブルになると思うんですね。(p.106)
第6章 心技体まるごとの鍛錬
第7章 音の可能性
いのちは音なんです。音を出すから、いのちなんです。風が、光が、草が、木が、花が、山が、川が、海が、空が、鳥が、虫が、動物が音を出していますよね。いのちは振動だともいえます。振動が終わると、いのちも終わるんです。(p.142)
二十世紀の音楽が「人間の音楽」だったとしたら、二十一世紀は「いのちの音楽」の時代になると思うんですよね。(中略)「いのちの音楽」は都市ではなく、生きている自然の「いのちの場」から生まれるはずです。自然のいのちといっしょに演ってみてほしいですね。(p.161)
第8章 いのちに忠実に生きる
今の僕の実感をいうなら、この広大無辺な宇宙の中の、きわめて小さな地球という星の上に、何十億年かのタイムの中で、こうやって今この瞬間に「近藤等則」という名前の人間として生きているということ - これほどの奇跡はない、というのが基本的な思いですね。(p.165)
生まれて、努力して、やっと幸せになるとかじゃなくて、人間として生まれて存在しているというだけで、もうミラクルといえるぐらい祝福されているんだ、と。地球上に空気を吸って生きているだけで奇跡なんだという感覚を、なんで一人ひとりがもたないんでしょうかね?(p.165)
何かをやった結果として幸せがあるんじゃなくて、人生というのは、はじめから幸せがあると考えたほうが楽なんじゃないかな、と僕は思うんですけどね。そうしたら、幸せになるための無理やりの努力なんて、本当は必要ないはずですよ。(p.166)
僕の場合は、生きている楽しさは、生きているプロセスそのものにあると感じるんです。(中略)僕は即興演奏派だから、生きているプロセスこそ、いのちそのものだと思うんです。(p.166)
だから僕の場合は、自分のいのちにウソをつかないで、一日一日を充実して生きるということしかないんですよ。いのちが求めることをただ無心に演っている、この瞬間瞬間を楽しむというだけで。(p.167)
それで、結果としていのちがどこに僕を導こうと、そこが自分に一番ふさわしいところなんだから、先の心配なんかしないで、一日一日いのちが求めることを即興的にやっていく。(p.167)
それなのに、わからないということを恐る人は、自分のいのちがこうしたいと感じても、わかっているワクの中に自分を押しとどめてしまうでしょ。それでは「いのちの解放」というか「無意識の解放」はできませんよね。(p.168)
悟りとはどういうことかというと、自分のいのちの中に、ある種の無限性を見つけることでしょ。(p.171)
下記で、第6章の抜粋(もしくは元になったトークの一部)を読むことができます。
- 追悼 近藤等則さん(「湧」スペシャルトーク公開) (地湧社, 2020-10-26)