法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

いのちがあなたを生きている

東本願寺の外壁に大きく「今、いのちがあなたを生きている」と書かれているのを見たのは、かれこれ10年くらい前のことだったと思います。2011年の親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマとのことでした。正直申しまして、当時の私の理解力を超えた言葉でした。

最近になって知ったのですが、ここでの「いのち」は「無量寿」のことであり、すなわち「阿弥陀仏」のことだそうです。もう少し詳しく書くと、私たち一人一人の命は実はみんなつながっていて、その全体は量ることができないくらい大きな大きなひとつの「いのち」なのだそうです。それを「無量寿」というようです。そんな大きな大きな大きな「いのち」が分かれて分かれて、また分かれて一人一人の命としてこの世に現れています。そのような状態にあることを表現しているのが、(無量寿な)「いのち」が(個人の)「あなた」を生きている、という言葉のようです。

言い換えるなら、「ひとついのち」=「無量寿」=「阿弥陀仏」が「あなた」を生き、「わたし」を生きているのですね。また、Aさんを生き、Bくんを生き、トンボを生き、タンポポを生き、川を生き、雲を生き…。こんな風に、あらゆる存在は「ひとついのち(無量寿阿弥陀仏)」の現れだからこそ「山川草木悉有仏性」なんですね。

そして、(個人の)「わたし」が(無量寿な)「ひとついのち」=「阿弥陀仏」と改めてひとつになるために唱えるのが「南無阿弥陀仏」なんですね。

いのちの本当のすがたを、様々な立場の人が、それぞれの言葉を使って精一杯表現している一つの例なんだな、と思いました。精一杯の表現だからこそ、受け取る側にも準備が必要なんだな、と思いました。喩えるなら、ストライク・ゾーンを受け手が勝手に決めるのではなく、表現者に合わせて設定する必要があるんですね。受け手はそれだけ融通無碍でないといけないんでしょうね。表現者も本当は融通無碍に対機説法できるともっとよいのでしょうね。。しかし、敬虔な信徒から一般の人まで様々な人の目に触れる標語については、誰にでも理解してもらえる言葉を選ぶのは難しいのでしょうね。と、私が理解できなかったことを正当化しております(笑)

以上、いつものように多分に私の勝手解釈が入っていると思います。