法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

自由とは何か?

自由とは何か?考えれば考えるほど謎が深まり、とどまるところを知りません…

一般論としては、自由とは思い通りに行動できることを指す言葉ではないかと思います。

しかし、もしも意志決定に自由がないとしたら…。勘違いや誤情報や衝動により、本来の意図とはまったく異なる意思決定を日常的に行なっているとしたら…。そんな意思決定に基づく行動は果たして「自由」なのでしょうか?ひょっとしたら誰かに(あるいは欲望に)操られているだけかもしれません…

また、東洋的観点に立つと、執着からの自由や、運命からの自由も重要ではないかと思います。どんなに煩悩を刺激されても、本来の意図通りの意思決定を行い、それを素直に実行できるかどうか。どのような運命のもとに生まれても、運命を思い通りに変えながら、望み通りに生きていけるかどうか。執着や運命に翻弄されることなく生きる能力も、自由の重要な要件ではないかと思います。

(さらに私は「理性の限界」からも自由でありたいと思っています)

一方で、スポーツは適切なルールがあってこそ楽しめます。例えばサッカーで自由にハンドできるとしたら、あるいは野球で好き勝手に選手交代ができるとしたら、まったく別のスポーツになってしまうと思います。スポーツは、適切なルールを決めて自由度を減らすからこそ楽しめる世界ではないかと思います。

これはスポーツに限らないことだと思います。例えば書道は文字を書くからこその書道ですし、ダンスは肉体の制約があってこそのダンスです。他にも、暗黙の制約に則って自由度を減らすからこそ楽しめる世界はたくさんあると思います。

考えてみると、この世は制約だらけです。物理法則、自然法則、言語、文化、法令、契約、などなど。仮にそういった制約をすべて忘れて、自由に魔法を使えたり、自由に法令や契約を書き換えられるとしたら…、この世はまったく別の世界になってしまうと思います。そんな白昼夢のような世界に生きることが楽しいかどうか…

そうやって考えてみると、この世は様々な面倒臭い制約があるからこそ楽しめる、そんな世界なのかもしれません。不自由を受け入れる自由。不自由を楽しむ自由。そんな自由があるのかもしれません。

そんなこんなで「自由とは何か?」「果たして私はどのくらい自由なんだろう?」という自問に自答することはできませんでしたが、、そんなことを考える暇があったら、「自由も不自由も全部ひっくるめて楽しむ自由」を満喫した方がよほど有意義で楽しく暮らせるのではないか…と思いました。


ところで、ミヒャエルエンデの「自由の牢獄」という短編小説があるそうです。私自身は読んだことがありませんが、数十文字程度の要約を読んだ感想としては、、この短編小説の主人公は、自分が持っているモノサシが使えない状況に恐怖を感じているのかもしれないと思いました。この世界は自分の想定している範囲内であって欲しい、想定外な状況は嫌だ。あらゆることが想定内に収まるよう、日頃から一所懸命勉強したり空想したりしている。そんな考え方の人なのかも…なんてことを思いました。

逆に想定外の事態にワクワクするタイプの人は、「どれにしようかな神様の言う通り…」などと遊び気分で適当にひとつ選んで、喜んで飛び込んでいくと思います。

なんとなくですが…、日本人は「失敗する自由はない」と思っている人が多いのではないかと思います。ところが「失敗」の定義が人任せなので、どんなに自由に振舞っているつもりでも、実際には人任せの不自由な人生を歩んでいる…。自ら進んで重い重い手枷足枷を沢山沢山つけておきながら、「自由が欲しい!」と叫んでいる。そんな逆説的な生き方をしている人が多いのではないか、なぜ不自由なのか気付いてないのではないか。そんな印象を持っています…

自由の定義は、その人の人生観、世界観、宇宙観等を表しているのかもしれないなぁと思いました。