法楽日記

デジタル散策記&マインド探訪記

「○○してもよいですよ」は許可か指示か

(1)運動会と体育祭

運動会・体育祭の季節となったようです。

とある学校の近くを通ると、練習の声が聞こえてきました。油断してたので、最初は先生の声が外国語のように聞こえました。普段は脳の回転力を必要最小限に落としているからです。

脳の回転力を少し上げてみたものの、十分には聞き取れない部分がありました。しかし、何の練習をしているのかわからなかったので、聞き取れなかった部分の推測ができませんでした。文法上は何かの許可をしているようでしたが、状況的に、補足的な指示だったのではないかと思います。と言うわけで、私の聞き取り能力では、学校の授業についていけなさそうでした…


(2)許可か命令か

日本語の「○○してもよいですよ」は文法上は許可の表現ですが、文脈によっては指示・依頼・説得などの意図を伝えるために用いられることがあるように思います。話し手が考える「あるべき姿」を示すことで、聞き手から忖度を引き出すことを目的とした表現ではないかと思います。

そのため、「○○してもよいですよ」と言われたときに、「○○したくないから、しなくてもいいんだな」と判断すると、不興を買うことが多いように思います。

日本語では、文法上は許可や希望の形でも、実際には指示・命令だったりすることがよくあるので、私にはなかなか難しいです。日本語検定の初級で不合格になりそうです…

数年ぶりの読書

数年前に読んだ本を数冊、改めて読みました。

数年前も懸命に理解に努めたつもりでしたが、今から思うと理解がとても表面的でした。

もしも数年後に再び読む機会があれば、今の理解がとても表面的に思えることと思います…

もとい、そんな風に思えるように、これからも少しずつ知見を深めていきたいと思います。

晩秋

今日から旧暦九月、伝統的な文芸世界の表現では今日から晩秋です。

街路樹もところによっては落葉が見られるようになりました。

秋の風は意外と体を冷やすようで、チャリ散歩では普段着より厚着をしないといけなくなりました。出発時点では暑苦しく感じても、帰宅する頃には厚着不足だったように感じるくらいです。下り坂の風も、これから段々と厳しくなっていくことと思います。

私は血行が悪いので、気温の変化に合わせて体や脳の基礎能力が変動します。それに合わせて体や脳の使い方を変えていかないといけません。日々の暮らしは基礎能力の組み合わせで成り立っているので、仮に基礎能力の変動に上手に適応できたとしても、トータルでできることはどうしても季節によって変動します。例えば文章を書くにしても、夏の気温であれば思ったことを日本語に変換することは比較的簡単でしたが、最近は調子のよい日でないと思ったように作文できません。肉体作業も抑え気味です。

チャリ散歩を始めた頃は、加減がわからず、うっかり足腰に負荷をかけすぎたことがありました。いつだったか長い坂をゆっくりと上ってから2〜3日ほど、両膝がダルい日が続いたことがありました。両膝がダルいと一歩一歩が思うように歩けないからでしょうか、何をするにしてもやる気が湧いてきませんでした。身体のあちこちに不自由なところを抱えている人は、肉体面だけでなく、精神的にも大変なのかもしれないなぁ…と思いました。


ところで、以前聞いたお話によると、伝統的な文芸世界では、旧暦七月・八月・九月はそれぞれ初秋・仲秋・晩秋と表現するそうです。

ちなみに「仲秋」の『仲』は春夏秋冬を三分したときの真ん中を意味するそうです。また、「中秋の名月」の『中秋』は「旧暦秋のど真ん中の日である旧暦八月十五日」という意味だそうです。「仲秋」と「中秋」は漢字は似てますが、意味は異なるようです。

※旧暦ではなく、二十四節気に基づく季節表現を用いる分野もあるかもしれません。

健全に覆す

私は常識も定説も覆すものだと思っています。

現代から見ると、百年前の常識は間違いだらけ、千年前の常識は迷信だらけに見えるのではないかと思います。同様に、現代の常識を百年後に振り返ると間違いだらけ、千年後に振り返ると迷信だらけに見えるのではないかと思います。

理科や社会の教科書で説かれている定説ですら、子どもの頃の教科書と現代の教科書では、説明が変わっている部分が多々あるのではないかと思います。(長く生きておられる方ほど、そのように感じられるのではないかと思います)

事実に基づいて常識や定説が活発に書き換えられる社会は、健全な社会だと思います。明るい未来が待っていると思います。逆に、空想に基づいて常識や定説が頻繁に書き換えられる社会は、歪んだ社会だと思います。暗い未来が待っていると思います。

はたして現代社会はどんな未来に向かって進んでいるのでしょうか…

高揚感は危険信号

毎日のようにリハビリ作文を書いていると、稀に「なんだかすごいことを書いたぞ」とばかりに高揚感を得ることがあります(笑)。そういうときは間違いなく、翌朝読み直すと幻滅します(笑)

高揚感を得るということは、私自身の知見の延長線上で、なんとなく良さげな位置にあることを意味しているのではないかと思います。すなわち、事実に即しているかどうかとはまったく関係なく、私自身の想像力に酔いしれているからこそ高揚感を感じるのではないかと思います。

そのため、翌朝冷静な目で読み直すと、論理が飛躍していたり、不都合な事実を無視していたりすることに気付いて、幻滅してしまうのではないかと思います…

したがって、万一高揚感を感じたときは、眉に唾をつけて考察し直した方がよいことを意味しているように思います。おそらく人それぞれだと思いますが、私にとっては高揚感は危険信号です。最近は気をつけるようにしています。

(これまでの経験を思い出してみると、湧き上がる感情には冷静な思考を阻害して結論を捻じ曲げる力があるように思います。同様に、喜怒哀楽などの激しい感情の表出には冷静な話し合いを阻害して結論を捩じ込もうとする意図があるように思います。全般的に、湧き上がる感情は要注意だと思います。)

思野狭窄と暮らす

(1)思野狭窄

私は「視野狭窄」ならぬ「思野狭窄」の症状があって、一度に考えられる範囲が発症前と比べると随分と狭くなりました。そのため例えば、たくさんの条件をバランスよく考慮しながら計画を立てようとすると、思考対象が「思野」から大きくはみ出してしまいます。

慣れたことであれば、上手に条件を絞って「思野」の範囲にうまく収めて、無理なく考慮することができます。しかし、慣れないことは条件を絞るための思考作業自体が難しく、右往左往するしかありません。幸い、グッと集中力を高めると条件が多いままある程度考えることができるのですが、その代わりに脳に過負荷をかけてしまいます。

※「脳の疲労」も「脳に過負荷」も感覚的な表現です。おそらく、脳の壊れかけた部分を強く刺激した結果、健康な人には想像もつかないような疲労状態に陥ってしまうのだと思います。感覚的には、脳が重いような、フラフラなような、エネルギーの通りが悪くて硬くて痛いような、言葉にはしにくい状態になります。


(2)ミニドーナツ

私は聴覚情報処理障害のような症状があって、普通にしていると、普通速度のお話を聞き取ることができません。幸い、グッと集中力を高めると聞き取り能力が上がるのですが、その代わりに脳に過負荷をかけてしまいます。

ネットの動画サイトを見てみると、興味深そうな動画がたくさん並んでいます。しかし残念ながら、字幕のついたゆっくりめの短編動画(10分程度)しか理解することができません。

いつのことだったかは忘れましたが、講演動画を再生したものの十分には聞き取ることができず、すぐに諦めてしまったことがありました。しかしせっかくなので、講演を BGM 代わりにして、ソリティア(正式名クロンダイク)を始めました。気分だけでも味わおうと思ったからです。ところが意外なことに、ソリティアをしながら聞くとはなしに聞いていると、思ったよりも理解できることがわかりました。もちろん、ソリティアをしながらのことなので、十分に理解できる訳ではありません。しかし、動画に集中して聞くよりも、ソリティアをしながらの方が随分と楽に概要を把握できました。(このとき見つけた方法はたまに活用してます)

その体験を通して思ったのですが、私は「思野」が狭いだけでなく、「思野」のど真ん中も壊れているのかもしれません。そのため、理解したいことを「思野」の中心に置くよりも、中心から少し外れたあたりに置いた方が、残された理解力を発揮しやすいのかしれません。

もしもそうだとすると、私の「思野」はミニドーナツ型なのかもしれません。


(3)変性意識

発症直後の読み書きのリハビリを思い出してみると、、顕在意識のままでは思うように読み書きできないので、少し変性意識状態に入るようにしてました。そして意識状態を微調整しながら、読み書きに適した意識状態を見つけては、それを身に付けていくことが当時のリハビリのメイン作業でした。おそらく、生き残った脳機能を上手に活用することで、なんとか読み書きできる方法を探っていたのだと思います。

その影響で、今も読み書きは少しばかし変性意識状態に入って行っているように思います。変性意識に入ることで、顕在意識の「思野」への負荷をできるだけ小さくしているのかもしれません。

会話能力のリハビリが思うように進まない理由のひとつは、会話をしながら変性意識に入ることが上手にできないからかもしれません。瞑想を習慣としている人との会話が比較的楽なのは、会話をしながら少しばかし変性意識に入ることができているからかもしれません。アート系の人との会話が少し楽に感じるのも、もしかしたらアート系の人は制作作業中は瞑想状態に入っている人が多いことを意味しているのかもしれません。ということは、私自身が深い瞑想を習慣化して、誰と会話するときでも簡単に変性意識に入ることができるようになれば、会話能力がグンと伸びるかもしれません。


(4)潜在意識

発症前は、頭脳作業を始めるにあたっては、最初に作業の全体像を理解して、それから作業計画を立てて、ひとつひとつ作業していたように思います。

ところが発症後は、「思野狭窄」の影響で作業の全体像を理解することができないことが多くなりました。そこで潜在意識につながって、潜在意識から浮かび上がってくるままに作業するようにしています。潜在意識からの情報を上手に受け取ることができれば、自分でも不思議なくらいピタリピタリと作業が進みます。おそらく、潜在意識のどこかに潜んでいる「昔取った杵柄」が作業手順を上手に組み立ててくれているのだと思います。(ただし、作業速度は発症前と比べると随分とゆっくりです)

リハビリ作文も、潜在意識から浮かんでくるままに書いています。顕在意識で考えて作文することもできますが、その場合はかなり簡単な内容しか書けません。潜在意識と上手につながることができると、比較的複雑な内容を書くことができます。リハビリ作文を通して表現力や掘り下げ力を高めようと思ったら、潜在意識につながった方がリハビリ効果が大きいように思います。

おそらく、潜在意識はほとんど壊れていないのではないかと思います。もしかしたら、壊れているのは、顕在意識の「思野」の部分だけかもしれません。頭脳作業をするときに、顕在意識の「思野」にできるだけ頼らない方法を見つけることができれば、できることが随分と広がるのではないかと思います。

ところで、潜在意識とつながるためには、少しばかり変性意識に入る必要があります。変性意識のお蔭でなんとか暮らしていけてます。


(5)肉体作業

肉体作業については、発症直後と比べると血行が随分と改善しているお蔭で、ものを運ぶような単純な力作業は比較的楽にできます(あまり重くないものに限ります)。ところが、例えば障子の掃除のような手先の細かさを求められる作業は、脳に負荷をかけがちで、まったく楽ではありません。

肉体作業と言っても、実は一番重要なのは、脳への過負荷を避けることにあります。

ひょっとしたら、細かい作業では手先を上手にコントロールするために、ついつい「思野」のど真ん中を使ってしまうので、疲労が大きいのかもしれません。「思野」の中心から少し外れたあたりを使って掃除をするような工夫ができると、少し楽になるのかもしれません。

あるいは、細かい作業をするときも、変性意識に入るようにするとよいのかもしれません。肉体作業をしながら変性意識に入るような工夫ができると、様々な肉体作業が随分と楽になるかもしれません。


(6)取らぬ狸の皮算用

発症から年月が経ち、回復したことと、回復してないことの差がものすごく大きくなりました。

頭脳作業においても、肉体作業においても、一番重要なのは上限値を超えないことです。体と脳の上限値を超えない範囲で作業する方法を身に付けられるかどうかが一番重要です。上限値を超えた途端に体や脳に過負荷をかけてしまって、作業を継続できなくなったり、疲労が長らく残ったりします。体と脳の上限値を超えない範囲で、最高のパフォーマンスを出すことが大きな目標です。

ある程度リハビリが成功した能力は、上限値を超えない方法を身に付けられたものだけです。これまでに身に付けたコツを、まだ回復してない能力に応用することができたなら、暮らしが随分と楽になるかもしれません。まったくの「絵に描いた餅」と言いますか、「取らぬ狸の皮算用」ではありますが…

「ねばならない」スイッチ

(1)オンとオフ

仕事をしているときを「オン」、プライベートの時間を「オフ」と表現することがあるようです。心のどこかにスイッチがあって、始業時にオン、終業時にオフすることをイメージした表現ではないかと思います。どんなスイッチをオン・オフしているのか、以前から興味がありました。

昨夜ふと思ったのですが、「ねばならない」スイッチと関係しているかもしれません。


(2)義務感

仕事時間中はたくさんの「○○せねばならない」に囲まれます。そこで集中力を高めて、限られた時間の中でテキパキと業務をこなしていかないといけません。たくさんの「ねばならない」と格闘するために、仕事用の「ねばならない」スイッチをオンにするのではないかと思います。

仕事を終えて家路につくと、主婦・主夫へと気持ちを切り替えなくてはいけない人は多いのではないかと思います。そして改めて、たくさんの「○○せねばならない」に囲まれるのではないかと思います。たくさんの「ねばならない」と格闘するために、家事用の「ねばならない」スイッチをオンにするのではないかと思います。

副業をしている人、社会活動をしている人、業界や地域の役職についている人など、場面が変わるたびに新たな「ねばならない」スイッチをオンにする必要のある人は多いのではないかと思います。

たくさんの「ねばならない」スイッチに囲まれている人が、すべての「ねばならない」スイッチをオフにできる時間、それがオフの時間ではないかと思います。本当にくつろげる時間なんだろうと思います。


(3)趣味

その一方で、仕事が趣味、という人もいるのではないかと思います。仕事が楽しくて仕方がないので、朝から晩まで休日なしで働きたくて仕方がない。仕事に打ち込んでいるときが一番調子がよくて、たまの休日は気疲れしてしまう。そんな人たちにとっては、仕事上の「○○せねばならない」は楽しみのひとつなので、「ねばならない」スイッチは無用です。

あるいは、家事が趣味、という人もいるかもしれません。家事が楽しくて仕方がないので、疲れを感じることがない。日々工夫を重ねて、丹精込めて家事をすることに喜びを感じている。そのような人たちにとっては、家事用の「ねばならない」スイッチは無用です。

副業をしている人、社会活動をしている人、業界や地域の役職についている人などの中にも、同様に「ねばならない」スイッチが無用な人はいるかもしれません。

大好きなことについては「ねばならない」スイッチは無用でも、あまり好きでないことについては「ねばならない」スイッチが必要かもしれません。「ねばならない」スイッチがまったくない人はほとんどいないのではないかと思います。だからこそ、大好きなことに打ち込める時間を大切にしたいのではないかと思います。


(4)自律と自発

上記において、「ねばならない」スイッチをオン・オフする人は「自律的」な人(=自らを律する人)で、「ねばならない」スイッチが無用な人は「自発的」な人と表現できるかもしれません。

自律的な人と自発的な人では、モチベーションの高め方が異なっているのではないかと思います。

自律的な人は、「ねばならない」スイッチを刺激すると気合が入るのではないかと思います。例えば、重要な仕事を依頼されたり、お礼を伝えられたり、などです。あるいは、厳しい態度で命令されたり、ご褒美をほのめかされたり、もそうです。(イソップ寓話『北風と太陽』を思い出す例です)

それに対して自発的な人は、興味を持ってもらうとエンジンが全開になるのではないかと思います。例えば、その人の興味の延長線上に上手に位置付けたり、話者の興味が伝播するように話したり、などです。

言い換えると、動機が思いやりと恐怖心にあるのが自律的な人、内面から湧き上がるのが自発的な人、と言えるかもしれません。あるいは、動機が外にあるのが自律的な人、内にあるのが自発的な人、とも言えるかもしれません。また、両方を兼ね備えた人もいるかもしれません。


(5)逆効果

万一、両者に対するモチベーションの高め方を誤ると、逆効果になるかもしれません。

例えば、自律的な人の興味を刺激しても、仕事の話とは思ってもらえないかもしれません。あるいは、自発的な人に威圧的な態度を取ると、意欲を失って仕事の効率が著しく落ちるかもしれません。

おそらく自律的な人は、自律的な人のモチベーションを高めることが得意であると同時に、自発的な人のモチベーションを落とすことも得意ではないかと思います。下手をすると、自律的な人が自発的な人のモチベーションを高めようとすればするほど、口先だけの懐柔策を繰り返されているように感じられて不信感に陥ったり、自発的な人には脅迫されているように感じられて強い恐怖心と大きなトラウマを残すことになったりするかもしれません。

同様に自発的な人は、自発的な人のモチベーションを高めることが得意であると同時に、自律的な人のモチベーションを落とすことも得意ではないかと思います。下手をすると、自発的な人が自律的な人のモチベーションを高めようとすればするほど、自律的な人には時間の無駄のように感じられて無視を決め込まれたり、仕事をやる気のない人と感じられて信用を失ったりするかもしれません。

そのため、自律的な人と自発的な人が一緒に仕事をするときは、相当な注意が必要ではないかと思います。


(6)組織文化

もしかしたら、組織文化にも自律的な人が働きやすい組織文化と、自発的な人が働きやすい組織文化があるかもしれません。その場合、所属組織を選び間違えると、本人にとっても組織にとっても不幸な事態が発生しやすいのではないかと思います。

組織文化は創業者が創り、歴代の経営者が育てるものではないかと思います。したがって、創業者や経営陣の組織運営に対する考え方との相性が第一に重要かもしれません。ただし、構成員の個人差は大きいと思うので、組織との相性はよくても、馬が合わない人はいるのではないかと思います。逆に、組織との相性は悪くても、馬の合う人はいるのではないかと思います。


(7)燃える

ところで私は、自発的な側面が非常に強く、自律的な側面が非常に弱い人です。

すなわち、自分の興味に従って活動し、興味が尽きるまで活動します。そのため、何をするときでも、まず興味を持つことから始めます(傍目には無駄な時間に見えるかもしれません)。興味が燃え盛っているうちは熱心に活動します。深みのあるテーマであれば、興味が燃え尽きる心配はありません。しかし、猛烈な冷や水を浴びせられると、興味を失って活動が停止することがあります。

逆に、義務感で継続的な活動ができるような立派な人ではありません。それどころか、「ねばならない」スイッチを威圧的に刺激されると誤動作しかねない人です。おそらく、心の大きな大きな傷が強く刺激されてしまうのだと思います。心の中の「ねばならない」スイッチが壊れているからこそ、その代替として自発的な側面が発達したのかもしれません。


(8)想定内外

心の中は人それぞれなので、常識の想定内の人もいれば、想定外の人もいると思います。

また、想定外の人とも上手にコミュニケーションできる人もいれば、苦手な人もいると思います。

想定内の人と想定外の人を上手につなぐ仕組みがあるとよいなと思います。また、想定外の人と想定外の人を上手につなぐ仕組みもあるとよいなと思います。